チェスタートン 今日の箴言



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2009年10月28日

この日のついーと

  • 08:03  @obuchan 神は石ころからアブラハムを創り出すことができる、と主イエスはおっしゃってますね。それゆえ、神は、石ころ、または、あばら骨、を使って...と考えられるでしょう。では、石ころの妻と、あばら骨の妻の違いは何か? ここを問い始めることから神学することが始まります。
  • 08:10  @obuchan あばら骨の妻の場合は、それを得るのに、眠り(死の予行演習として)と痛み(自己を譲与してそれが自己ならざる自己となることとして)が必要です。石ころは石ころであって、何の問題もないのですが、あばら骨の場合は、そこにすでに、十字架の刻印が施されていると言えるでしょう。
  • 08:33  よって、結論。「結婚は冒険である。戦争に行くようなものだ」G.K.チェスタートン
  • 09:15  きっこさん、あいもかわらずかっ飛ばしてるなぁ。http://tinyurl.com/yf3fp63
  • 09:28  詩編第72編に示された政治的統治者の責務が御神意であるなら、これは適切なことだ:「かつて多くの政治家は、「政治は弱者のためにある」と断言してまいりました。大きな政府とか小さな政府とか申し上げるその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない」
  • 09:48  シャッター店主への四つの態度:■新自由主義「おたくも市場で勝ち抜いてモールになればいい」 ■資本主義「潰れそうな店は助けないが潰れそうなモールは助ける」 ■共産主義「すべての店を国有化して市場をやめよう」 ■分配主義「市場の富をみんなで分配して市場を維持存続させよう」
  • 16:14  「われわれの存在のまことの主は、生と死を支配する主でなければならない。その方こそが、まさにイエスにおいて啓示された方として、われわれが聖書の中で証しされているのをみるところの父なる神である」カール・バルト
  • 16:29  「神が、概念の完全な意味において、われわれの存在の主でありたもうならば、その時、われわれの存在は神によって、ただ神によってだけ、非存在の深淵から保たれていることを意味する。父なる神がわれわれの存在を実在のものとして意志され、措定したもう限り、それは実在のものである」カール・バルト
  • 17:10  @psalm42 本を読みながらメモ代わりに入力してますよ。140字の制約があるので、バルトのうねうねと地を這うような長文から要点を搾り取るにはいいですね。後から時系列でも単語でも検索できるし。  [in reply to psalm42]
  • 17:17  クリスチャン新聞2009年11月1日号一面トップに「クリスチャントゥデイは異端言論」との見出しの記事が掲載されました。三面に関連記事。韓国二大長老教会の総会決議とテレビ報道を伝えています。CT対山谷裁判についてもほんのちょっと触れられていました。
  • 18:10  サンクスです。RT @psalm42: やった!記事URL、入れておきましたよ!http://ow.ly/wMmo
  • 20:43  「あたりまえのつまらんことなど、ありはせぬ。あらゆることが、喜悦をもって受け取れる。あらゆることが、お恵みとして受け取れる」G.K.チェスタートン
  • 20:51  キリストの贖罪死をおのれのためと信じ受け取った者は、キリストと共に律法の呪いを受けて刑死した者と、神によってみなされる。その者はすでに死したゆえ、律法の呪いから永久に解かれたことになる。なぜなら、律法は罪に定めた者を、ただ一度呪いをもって刑死せしめることができるだけだからである。
  • 20:53  キリストに結ばれて死んだ者はまた、キリストに結ばれて復活の命へともたらされたのであるゆえに、神はその者をキリストの中にいる者としてご覧になる。父は子を限りなく愛して聖霊を注ぎ給う。それゆえその者は、キリストに在って、キリストの中で、キリストと共に、限りなく愛され、聖霊を注がれる。
  • 20:56  その聖霊は神の愛である。それは、父が子を愛し、また、子が父を愛するところの愛であり、また、神がその被造物を愛し慈しむところの愛である。その聖霊がいまや、キリストに結ばれた者のうちに注がれている。聖霊はキリストに結ばれた者をして、神を愛し隣人を愛せしめるところの、内的な動力となる。
  • 21:00  聖霊によって導かれて生きる者は、律法の中核である十戒の二枚の板、すなわち、神への愛と隣人への愛に生きる者とされる。律法の呪いに威嚇されて滅びへの恐怖から駆り立てられてする奴隷なのではない。律法の下にはない。聖霊に満たされ、聖霊の動力により、喜びと自由をもって神を愛し隣人を愛する。
  • 21:05  聖霊によって導かれて生きる者は自由であるが、その自由は「肉にまけば肉から刈り取る」法則から自由にはせられていない。なぜなら彼は肉体をもっているから。毎日紅茶に角砂糖を6個入れていれば糖尿病になる。車を運転する際に左右を注意しなければ交通事故に遭う。それゆえ箴言の知恵が必要である。
  • 21:15  箴言の知恵は、魂を救済する権能を有さない。それを有するのは主イエスキリスト御一人だ。しかしキリストの贖罪の恵みに与って救われた者は、聖霊に導かれて生きるとき箴言の知恵に聞くならば「肉にまけば肉から刈り取る」多くの害悪を避けて、神と隣人との前に真に謹厳で平穏な生活を送ることを得る。
  • 21:30  箴言17:18「すぐ保証人になるな」これは知恵である。聖霊に導かれて生きる人は、隣人を愛する愛ゆえに保証人になる、という選択をすることができる。しかし愛を動機として保証人になったから安全ということにはならない。借金を背負わされる危険性がいつもある。聖潔られた愛は安全を保証しない。
  • 21:34  箴言25:17「隣人の家に足しげく通うな」これは知恵である。聖霊に導かれて生きる人は、隣人を愛する愛ゆえに隣人の家を頻繁に訪れる、という選択をすることができる。しかし愛を動機として頻繁に訪れたからといって飽きられないということにはならない。うとまれ、嫌われる危険性がいつもある。
  • 21:42  箴言26:25「優しい言葉を鵜呑みにするな」これは知恵である。聖霊に導かれて生きる人は、隣人を愛する愛ゆえに容易に信用して事を任せるという選択をすることができる。しかし愛を動機として言葉を信用したからといって裏切られないということにはならない。騙され利用される危険性がいつもある。
  • 21:47  聖潔られた人が愛ゆえに隣人の保証人になって、その結果、裏切られて多額の借金を負わされることになったとして、それは別に罪を犯したことにはならないのだが、しかし苦しみを被ることは避けられない。このように、聖潔られた愛それ自体は、苦しみを被ることを自動的に回避させるものとはならない。
  • 21:58  御祖師は確かに聖潔られ、全き愛の祝福に浴していた御人だが、しかし、あまりに家庭生活をおろそかにした。生涯の大部分を馬上での巡回説教に費やしてしまったからである。激怒した妻は御祖師をぶん殴り、髪の毛を引っ張ってひきずり回した。御祖師には愛があり罪がなかったが一点の知恵を欠いていた。
  • 22:04  おお、神よ。われらに愛のない知恵ではなく、知恵のない愛でもなく、愛とともに知恵を、知恵とともに愛を、授けたまえ!  おお、神よ。われらに聖潔のない知恵ではなく、知恵のない聖潔でもなく、知恵とともに聖潔を、聖潔とともに知恵を、授けたまえ!
  • 22:19  Wesley 1739/10/28: 午後1時、ブラッドフォードで説教。大雨になったけれども、1万以上の会衆が御言葉を傾聴するのを妨げることは出来なかった。私の語った御言葉は「われ今日、汝をして凡ての人の血よりわれの潔きことを記さしめんとす...」
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