「七日がすぎて、洪水が地上に起こった。ノアの生涯の第600年、第二の月の17日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。彼らと共にそれぞれの獣、小鳥や翼のあるものすべて、命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」
「命の霊をもつ肉なるもの」という表現で、ここでは、鳥や獣が直接的に指示されていることに、注意しましょう。
キリスト教の伝統的な神学では、「霊」を持つのは、理性的被造物である天使と人間だけ、とされて来ました。
特に、人間は「神の似姿」(イマゴ・デイ)として創造されたことから、「創造の冠」として、あらゆる被造物の中で、特別な位置を占めています。「万物の霊長」と呼ばれるゆえんです。
そして、神学者たちは、地上における、人間以外のすべての被造物、すなわち、鳥、家畜、野獣、爬虫類、昆虫、山川草木、森羅万象は、理性的存在ではないゆえに、「霊」を持たない、と考えて来ました。
しかし、神学者たちが、このように厳密に考えようとしたのに対して、聖書の記述は、神学者たちの議論を、あえて無視するようなかたちで、非常におおざっぱに表現している、と言わなければなりません。
なぜなら、創世記のこの箇所において、「命の霊を持つ肉なるもの」と呼ばれているのは、明らかに、ノアとその家族以外の乗客たち、すなわち、人間以外の生きとし生けるものから選ばれた、雄と雌との二つずつであったからです。
神学者たちの見解が、人間以外の生き物には「霊」が無い、ということで、おおむね一致しているのに対して、聖書の記述は、あえて少数意見を提示しようとしているかのようです。
たとえば、コヘレトの言葉には、次のような一文があります。
「神が人間を試されるのは、
人間に、
自分も動物にすぎないということを
見極めさせるためだ、と。
人間に臨むことは動物にも臨み、
これも死に、あれも死ぬ。
同じ霊をもっているにすぎず、
人間は動物に何らまさるところはない。
すべては空しく、
すべてはひとつのところに行く。
すべては塵から成った。
すべては塵に返る。
人間の霊は上に昇り、
動物の霊は地の下に降ると
誰が言えよう」
もちろん、この言葉を記した賢者は、存在論的な意味で「動物にも霊がある」と言おうとしているわけではなく、「動物も死に、人間も死に、しかも、死後どうなるかが不可知であるならば、動物と人間との間に、存在論的な優劣を付けるのは、ナンセンスだ」という、哲学的な問いかけをしているのです。
しかし、主イエスキリストが復活なさって、人類に「死後の命」の希望を明らかに示しておられる新約の時代においては、わたしたちは、もはや「死後どうなるか不可知である」と言うことは、できません。不可知でない以上、動物と人間との間に、存在論的な優劣を付けることは、必ずしもナンセンスではない、ということになります。こうなりますと、神学者たちの勝ちのようです。
しかし、この賢者の言葉に加えて、受難者ヨブの異議申立てに抗弁した若者エリフが、次のように述べているのを見るとき、わたしたちの考えは、揺さぶられます。
「もし神が御自分にのみ、御心を留め
その霊と息吹を御自分に集められるなら
生きとし生けるものは直ちに息絶え
人間も塵に返るだろう」
ここでエリフは、人間を含む生きとし生けるものすべてが、いまこの瞬間、生きることができるのは、神が、神の霊と息吹を、与え続けておられるからにほかならない、と言おうとしているのです。
そこで、神学者たちの見解と、聖書の少数意見との「中道」(ヴィア・メディア)を取ろうとするならば、次のような考え方ができるでありましょう。
すなわち、「神の似姿」として、また「理性的被造物」として、そして、まさにそれゆえに「霊と魂と体」という「三重性」をもって創造されたのは「創造の冠」としての人間だけであるとしても、ひとり人間のみが、その存在を、神の霊に負っているわけではなく、およそ生きとし生けるもの、鳥、家畜、野獣、爬虫類、昆虫、山川草木、森羅万象、すべてが、神の霊である「聖霊」の働きによって、命を授けられ、命を保ち、命を生きることを、許されているのである、と。
ここから、人間以外の被造物は、存在論的な意味で、人間と同様の「霊」は持っていないとしても、神の霊である「聖霊」によって、生かされて、生きている、いのちである、と観ることができるでありましょう。
まさにそれゆえに、ニカイア・コンスタンティノポリス信条は「聖霊」について、「われは、命の与え主なる聖霊を信ず」と告白しているのです。
わたしたちは、この信条を唱えるとき、たいていの場合、「福音を聴聞し、信仰の決心をし、新生したキリスト者において働くところの、命の与え主なる聖霊」だけを、考えようとしているでありましょう。
しかし、わたしたちが、聖書の「少数意見」に引き寄せて考えるのであれば、「命の与え主なる聖霊」の働きについて、少なくとも、三つの次元に拡げて捉えなければならないでしょう。
第一に、およそ生きとし生けるもの、すべてに対して、命を与えるところの聖霊。
第二に、「神の似姿」として創造された人間に対して、命を与えるところの聖霊。
第三に、わたしたちを「福音の召命」に応答せしめて、命を与えるところの聖霊。
被造物の世界を、このような「聖霊の三重の働き」の光の中で、見ようとするならば、わたしたちは、「神から自律した自然」というような概念は、そもそも存立する余地が、最初から無かったのだ、と考えざるを得ません。
わたしたちが、森の中を歩き、小鳥の歌に耳を澄ませ、緑の風を深呼吸し、虫の羽音や、鹿の姿に驚くとき、そこには「神から自律した自然」が、あるわけではありません。
「命の与え主なる聖霊」によって、生かされている命が、あるのです。
そうして、「福音の聴聞」により、聖霊によって与えられる「キリストの命」は、すべてのいのちを、完成するものです。
「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」






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