チェスタートン 今日の箴言



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2013年5月20日

第二十九回公判のご報告

本日2013年5月20日(月)午前10時より、東京地方裁判所第712号法廷にて、通称「CT対山谷裁判」の(第二十九回公判)人証尋問が行なわれました。

今回の公判では、人証尋問(証拠となる証人への尋問による証拠調べ)が行われました。

午前10時10分から正午まで、原告の矢田喬大クリスチャントゥデイ代表取締役社長に対する主尋問と反対尋問及び裁判官による尋問。
午後1時10分から3時45分まで、原告の高柳泉クリスチャントゥデイ前代表取締役社長に対する主尋問と反対尋問及び裁判官による尋問。
午後4時から被告の山谷に対する主尋問と反対尋問及び裁判官による尋問が行われ、午後6時に終了しました。

閉廷後に開催された「裁判説明集会」で、被告代理人の紀藤正樹弁護士と山口貴士弁護士から、今回の趣旨説明が行なわれました。

約一か月後に「尋問調書」(今回の人証尋問の音声記録を書き起こしたもの)が出来上がり、これをふまえて、8月2日(金)に最終弁論が行われて、それから数か月後に本裁判はついに判決を迎えます。

貴重な時間を割いて、全国各地から遠路おいでくださり、終日傍聴してくださった支援者の方々に心から感謝いたします。

次回、最終弁論は2013年8月2日(金)午後2時から東京地裁で行われます。なお、法廷番号は決まり次第、告知いたします。

2013年5月11日

クリスチャントゥデイvs山谷裁判が最大の山場を迎えます

ダビデ張在亨の異端カルト疑惑をめぐる裁判の攻防が6年目となります。いよいよ最大の山場である証人尋問を迎えました。

と き 5月20日(月)午前10時から午後5時
ところ 東京地方裁判所712号法廷(7階)

尋問の順序
午前10時
 原告・矢田喬大への主尋問(30分)と反対審問(90分)
午後1時10分
 原告・高柳 泉への主尋問(120分)と反対尋問(30分)
そのあと
 被告・山谷 真への主尋問(40分)と反対尋問(60分)

ことの発端は、ダビデ張系列の新聞「クリスチャントゥデイ」の元編集長k氏のご両親から、わたしがカルト相談を受けたことでした。

k氏が一時失踪した際にアパートに残した大量の聖書講義の中に、「西暦2000年に新しいキリストが到来する」「再臨のキリストはイエス・キリストではない」「その名はダビデ」という、通常のキリスト教会とは大きく異なる教えが存在していたのです。

また、香港・中国・韓国・米国・日本で「わたしはダビデ張を再臨のキリストと信じていた」という脱会者からの情報が出ました。

わたしは、統一協会前歴を持つダビデ張が、自分自身を「再臨のキリスト」として若者たちに教え込むことにより、彼らを関連団体に献身させ、疑念の禁止・絶対服従・無賃金労働などを伴う「熱狂的な崇拝」をさせているのではないか、との疑念を持ち、自分のブログで追及して来ました。

これに対し、クリスチャントゥデイは、名誉棄損で210万円の損害賠償をわたしに求める裁判を起こしました。

わたしは、異端カルト問題をめぐる裁判で日本における第一人者である紀藤正樹弁護士と山口貴士弁護士に弁護を依頼し、2008年4月から今日まで、裁判を戦って来ました。

裁判と同時進行で、ダビデ張の異端カルト疑惑が香港・中国・韓国・米国で次々と明らかになりました。

この裁判が、いよいよ証人尋問を迎えます。

特に、高柳泉は、ダビデ張から按手礼を受けた牧師であったにもかかわらず、日本でクリスチャントゥデイを立ち上げた際に、教界関係者各方面に「自分は牧師ではない。信徒である」と嘘の説明をしていました。彼は現在、ダビデ張の団体から離れています。

その高柳泉が法廷に姿を現し、詳細な尋問に答えることになります。彼がいったい、どのように答えるのか。この裁判の最大の山場です。

証人尋問は、だれでも傍聴することができます。クリスチャントゥデイの背後にあるダビデ張の異端カルト疑惑について関心を持っているクリスチャンのみなさま。教界関係者やメディア関係者のみなさま。ぜひ傍聴してくださり、異端カルト疑惑を白日のもとに解明するため、ご支援くだされば幸いです。

参考
「再臨キリスト論争」
「再臨キリスト論争:公然と語る指導者たち」
「偽キリストとの闘いを回想する」

2013年5月3日

憲法私的草案12か条


前文 人権は天賦にして権力はこれを犯すことができない。

1.日本国は、日本列島を主権領域とする、政教分離の民主主義政体を採る、独立国家である。

2.日本国の主権は、国民を源泉とし、国民の信託に基づき、国民の参加によって、司法・立法・行政の三権に分立した統治機構を通じて行使される。統治機構は、国家統治、地方自治、住民自治によって、構成される。

3.天皇は、国民の総意に基づいて、主権の統合を象徴し、国事行為を行う。

4.国民の信託は、首相公選、国会議員選挙、自治体首長選挙、地方議会議員選挙、最高裁判所裁判官国民審査、教育長選挙を通じて行われる。

5.国民の参加は、司法・立法・行政とNPO(特定非営利活動法人)との対等な関係に基づく協働、地方自治活動、住民自治活動、裁判員制度、起訴陪審制度によって、行われる。

6.主権の行使は、憲法、国際法、国連憲章、国連人権宣言によって、規制される。

7.主権の行使は、社会の秩序と安寧を維持し、公共の福祉を増進し、もって国民の幸福追求の権利を保障することを目的とする。国民の思想の自由・信教の自由・表現の自由・言論の自由・結社の自由を制限する法律を定めてはならない。

8.国家間の紛争を解決する手段としての戦争は、これを永久に放棄する。

9.国家の自然権に由来する自衛権に基づき、自衛に必要最小限度の軍隊を維持し、内閣総理大臣が最高指揮官として、軍隊の指揮・統制・編成を行う。編成は、志願制に基づいて行い、徴兵制は、これを永久に放棄する。

10.核兵器、長距離爆撃機、長距離ミサイル、空母、生物化学兵器、宇宙兵器は、自衛の限度を越えるものとして、これを永久に放棄する。他国による主権領域内への核兵器の持ち込みは、これを永久に禁止する。

11.主権領域内における自衛権の行使は、他国による主権領域の侵犯あるいは攻撃があった場合に、内閣総理大臣の決定で行い、事後に国会の承認および国連安全保障理事会への報告を必要とする。主権領域外における自衛権の行使は、これを永久に放棄する。

12.国連憲章第42条に基づき、国連安全保障理事会および国連総会の決議によって、国連軍が組織される場合、国会の全会一致の賛成により、軍隊を国連軍に参加させることが出来る。ただし、国連軍参加の決議に対して、首相および天皇は、ヴェトー(拒否権)を行使することが出来る。国連憲章第42条の要件を満たさない多国籍軍に対しては、いかなる場合にも、軍隊を提供することが出来ない。



不戦条約(1929年)

第一条

締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えることを非とし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において、厳粛に宣言する。

第二条

締約国は、相互間に起こることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段によるのほか、これが処理または解決を求めざることを約する。

参考:「私的憲法草案12か条」(2005年9月4日初出)

2013年5月2日

一元論・二元論・多元論のキリスト論的集中について


・恩寵vs自然という二項対立図式は、自然がその存在を全面的に恩寵に依拠しているのだから、対立は見かけ上のものでしかない。かつ、神性と人性が結合したキリストの位格において恩寵と自然は人格的に統合されている。このキリストの統治は諸権力を仲介して行われるから、現象としては多元論的に見える。

・こうして、一元論と二元論と多元論は、神人キリストの頭首権的王権的統治において統合されていることになる。統合しているものは人格的なもの、すなわち、愛だ。

・歴史が二項対立図式で展開して行くというヘーゲル的運動は、キリストの摂理的統治の「過程」である限りにおいて二元論的だし、その二元論的な過程に乗っている社会は多元論的だ。しかし、歴史のベクトルが進む終点では、天も地も頭なるキリストにおいて一つにされる。世界の始点と終点は一元論なのだ。

・歴史のベクトルが終点に向かうのは、自然の本性がキリストに向かって行く運動だし、信者が信仰から信仰へ進む運動だし、人類の聖化の運動だし、天国へ進む運動だし、それを希望と言う。ところで、一元論的なのは「終点」においてなのであって、過程である「現在」は二元論で多元論でなければならない。

・二元論と多元論の現象である「現在」を、神ならぬ人間が自分の考えで無理やりに一元論に持って行こうとするのは、キリストの摂理的統治に反旗を翻すことであり、その行為は本質的に反キリスト的であり、その行為が成功しかけたなら、その状況はバビロン的、あるいは、バベルの塔とみなされる。

・バビロン的状況は、神人キリストではない人間が超人間的な欲動によって作り出すものだが、神は主権を行使して必ずバビロン的状況を覆し、多元論的状況へと分解させる。しかし、終末の一元論的希望に目を向けた人々が廃墟の中から立ち上がって、二元論的葛藤をしながら歴史の歩みを再開するのだ。

2013年4月29日

God of the Heroes of Faith

+
O, God of Abraham, Isaac, Jacob and all Patriarchs.
O, God of Moses, Aaron, Deborah and all Priests and Judges.
O, God of David, Solomon, Esther and all Kings and Queens.
O, God of Isaiah, Jeremiah, Anna and all Prophets and Prophetesses.
You are the God who appeared to men and women of ancient times,
Called them to follow you, trained them, disciplined them,
Purified and sanctified them
As to be your ministers.
You are the God who moved forward Salvation Story
Through characters and spirits of
Those Faithful men and women.

O, Father God of our Lord Jesus Christ.
You are the God who united yourself into whole mankind
Through incarnated person of Jesus Christ, your only begotten son,
Who died for us, resurrected for us,
Ascended and enthroned for us,
And will come to glorify us in final perfection.

O, our Lord Jesus Christ.
Please send us your Holy Spirit and baptize us
Again and again in this place.
Through your precious blood, and through fire of the Holy Spirit,
Purify us and sanctify us again and again in this sacred moment.
So that we will be transformed into men and women of God
To accomplish the great Salvation Story,
That is the great Salvation War for
Salvation and Redemption of whole mankind.

O, God of the Heroes of Faith, we ask you to come and touch us
In the power of the Blood and Fire,
Here and now.
In precious name of Jesus, we ask you.
Amen.
+

Prayer in Sunday Worship at
International Conference on Training of the Cadets
28 April 2013, London

2013年4月28日

復活の祈り


イエスさま!

あなたは死者の中から三日目に復活されました。あなたをほめたたえます!

あなたが御母マリアの本質からお取りになった血と肉において、わたしたち全人類は、あなたのペルソナのうちに分かちがたく深くひとつに結び合わされています。

それゆえ、あなたが十字架につけられて死なれたとき、あなたのペルソナの人性において同一本質であるわたしたち全人類は、あなたに結ばれ・担われ・伴われて、あなたと共にわたしたちも死にました。

わたしたちは、アダムの堕罪によって呪いの中に閉じ込められたすべての肉なる者たちと共に、あの諸権力・宇宙の構成に関わる諸霊・位と主権と支配と権威のもとに長く捕囚の身となっていました。しかし、あなたの中でわたしたちが共に死んだことによって、わたしたちは諸権力の支配から解放され、永遠に自由にされました。諸権力は肉なる者たちを死の権能によって支配するだけであって、死の権能によって死に至らしめた者たちについては、死者であることをもって、もはや諸権力の支配のもとには無いからです。

ハレルヤ! キリストにある自由を感謝します!

あなたが御母マリアの本質からお取りになった血と肉において、わたしたち全人類は、あなたのペルソナのうちに分かちがたく深くひとつに結び合わされています。


それゆえ、あなたが十字架の死に至るまで御父のおこころに従い通されたとき、あなたのペルソナの人性において同一本質であるわたしたち全人類は、あなたに結ばれ・担われ・伴われて、あなたの従順の中へとわたしたちも持ち込まれました。

わたしたちは、アダムがしたように、おのれの人生の祭壇の中心に「おのれの思い」を置いて、人生と生活と宇宙の支配者に自己を定めて、そのことによって自我の牢獄の中に自ら閉じ込もっていました。しかし、あなたの中でわたしたちがあなたの完全な従順へと持ち込まれたことによって、わたしたちは「おのれの思い」から解放され、祭壇からとりおろし、御父のおこころを祭壇の中心に据えることができるようにされました。わたしたちは、自己の祭壇に奉仕させるために神を道具として使う偶像礼拝から解放されて、御父のおこころに奉仕させるために自分の霊と心と体をいけにえとしてささげる、まことの礼拝者へと変えられました。

ハレルヤ! キリストにある自由を感謝します!


あなたが御母マリアの本質からお取りになった血と肉において、わたしたち全人類は、あなたのペルソナのうちに分かちがたく深くひとつに結び合わされています。

それゆえ、十字架の死に至るまで御父のおこころに従い通されたあなたを、御父がことのほかお喜びになって、「これはわたしの愛する子、わたしのこころの喜び」とおっしゃって、御父がご自身の一切すべてをあなたに与えられたとき、すなわち、御父が限りなく聖霊をあなたに賜ったとき、あなたのペルソナの人性において同一本質であるわたしたち全人類は、あなたに結ばれ・担われ・伴われて、限りない聖霊の注ぎに共にあずかりました。

あなたのペルソナにおいて、あなたの神性に限りなく聖霊が注がれています。それとまったく同じように、あなたの人性に限りなく聖霊が注がれています。あなたの人性において同一本質であるわたしたち全人類は、あなたのうちに・あなたと共に・あなたを通して、限りない聖霊の注ぎにあずかっています。聖霊は、いまも・いつまでも・とこしえに、わたしたち注がれ、その注ぎに終わりがありません。終わりのない聖霊の注ぎを通して、わたしたちは、御父と御子と聖霊の交わりに、一部ではなく完全に、少しではなく永遠に、あずかっています。わたしたちは神ではないにもかかわらず、三位一体の完全な交わりのうちに、完全にあずかる者とされています。

ハレルヤ! キリストにある自由を感謝します!

あなたが御母マリアの本質からお取りになった血と肉において、わたしたち全人類は、あなたのペルソナのうちに分かちがたく深くひとつに結び合わされています。

それゆえ、あなたが死者の中から復活されたとき、あなたのペルソナの人性において同一本質であるわたしたち全人類は、あなたに結ばれ・担われ・伴われて、死者の中からあなたを復活させた御父の力によって、わたしたちもあなたと共に復活させられました。

もはや生きているのはわたしたちではなく、復活の主イエスキリストが、あたらしいわたしを生きていてくださることを感謝します。古い自分は過ぎ去りました。古い世界は過ぎ去りました。すべてのものがキリストの十字架によって終わらされ、すべてのものがキリストの復活によってあたらしくされました。わたしたちは、古い自分が死んで、キリストにかたどられて、あたらしく創造された者です。アーメン
わたしたちは、古い世界に属していません。アーメン
わたしたちは、諸権力の支配のもとにありません。アーメン
わたしたちは、あたらしいエルサレムに住み、あたらしい世界に生きる、あたらしい人間です。アーメン

ハレルヤ! キリストにある自由を感謝します!

どうか今日、キリストの復活をおぼえるこの日曜日に、わたしたちに、良き死と、完全な従順と、聖霊の注ぎと、あたらしい命とを、お与えください。そうすることによって、いよいよ深く、キリストの十字架と復活にあずかるものとならせてください。イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン

2013年4月18日

神の国について


新約聖書の「神の国」は、原典ではバシレイアという言葉が使われており、これは、王が支配する領域、という意味です。

わたしたちキリスト者にとっては、王の王・主の主であるイエスキリストが支配したもう領域、それが神の国だ、ということになります。

わたしたちは日常生活において三種類の神の国に触れる、ということができるでありましょう。

1 キリストの王国としての神の国

新約聖書が書かれた時代のキリスト者が抱いていた世界観においては、宇宙の構成に関わる諸権力(主権・位・支配・権威といった天使的諸力)が国家や公共機関の背後にあって、それらを動かしている、と考えられていました。これについては、フランシスコ会聖書研究所訳の新約聖書のエフェソ書やコロサイ書の欄外注釈に簡潔にコメントされていますので、読まれてみてください。

王の王・主の主であるイエスキリストが、勝利者として、神の右の座にあって宇宙を統治していたもう。そのキリストの御座の下にあって、天使的諸力が地上のさまざまの国家や公共機関を背後から動かし、善を勧め悪を罰することにより、社会の秩序と生活の安寧を保障して、人間がその罪性にもかかわらず自滅を免れることができるようにしている、という世界観です。

そうしますと、わたしたちが日常の生活のいろいろな場面で接する、社会のいろいろな仕組みや決まり事というのは、すべて諸権力であって、キリストの王国としての「この世界」を維持し管理するために日夜労苦して働いているキリストのしもべだ、ということになります。わたしたちは、生活の中で、諸権力への服従を求められる場面において、いつでもキリストの王国としての神の国に触れていることになります。一方、わたしたちは諸権力がその本来の任務から逸脱して悪鬼化する、という場面に触れることもあります。

2 キリストに結ばれた人間としての神の国

主イエスは、母マリアの本質から血と肉を取って、まことの人間となられた、まことの神です。カルケドン信条では、イエスはまことの神にして、まことの人であり、その神性においてイエスは父なる神と同一本質であり、その人性においてイエスはすべての人間と同一本質である、と告白されています。

ですから、イエスの血と肉において、過去・現在・未来のあらゆるすべての人間が、イエスとひとつに結ばれている、なぜなら、同一本質であるからだ、ということになります。この「イエスの受肉の神秘から参照した人間論」とでも言うべき世界観においては、およそ人間という人間はすべて、イエスと結ばれている、と観ることになります。イエスの受肉の時点以降、わたしたちの宇宙は根本的な変化をきたしたのであって、人間は、たとえそれがどんな人間であるとしても、血と肉をもった存在であるという、ただその事実をもって、すでにイエスと結ばれているのです。

そうしますと、わたしたちが日常の生活において出会うどんな人も、その国籍・人種・性別・年齢・言語・能力・思想・信条・立場・仕事・志向・犯罪歴といった属性にまったく関係なく、ただ血と肉をもった存在であるという一点をもって、その人はイエスと結ばれた存在だ、と観なければなりません。でありますから、わたしたちキリスト者は、出会うどんな相手に対しても、相手がイエスキリストであるようにして接しなければならない、ということになります。これが、相手の中にキリストを見ようとする姿勢でありまして、わたしたちは、相手がキリストであるかのように擬制するのではない。相手がほんとうにキリストであるとして接するのです。なぜなら、イエスは人性において、すべての人間と同一本質なのですから、これは本質的事柄であって、人間の尊厳は、ここにあるのです。

3 イエスの心の具現化としての神の国

血と肉をもった存在であるという、その事実をもって、すべての人はイエスと結ばれております。しかし、個々の人間が、その「人生の祭壇」において、その中心にいったい何を祭っているか、ということは、まったく別の話であります。たいがいの人は「人生の祭壇」の中心に、自分自身の思い、というものを据えています。人生において最も尊いのは、自分自身の思いの具現化なのであって、この具現化に向けてあらゆるものが奉仕するようにと、多くの人の人生は配置され構成されています。その意味では、王の王・主の主としてのイエスキリストの支配は、多くの人の「心」の中心にまでは、いまだ及んでおりません。この狭義の意味においては、多くの人はいまだ「神の国」に生きていないのです。

しかし、イエスキリストを個人的に自分の救い主として、王の王として、主の主として、心の中に迎え入れた時に、人は変化します。その「人生の祭壇」の中心を長らく占拠していた自分自身の思いというものは、とりおろされ、わきへのけられて、いまや、主イエスの心が祭壇の中心に置かれるようになります。人生において最も尊いのは、自分ではなく、主イエスの心の具現化なのであって、イエスの心の具現化のために、あらゆるものが奉仕するようにと、その人の人生は再配置され再構成されます。これが回心であり、新生であり、聖化であり、キリスト者になる、ということです。

いまや、王の王・主の主としてのイエスキリストの支配が、その人の「心」の中心にまで突入して来ます。もちろん、自分の思いをとりおろすのは、けっして容易ではありません。内的な戦いがあり、葛藤があります。しかし、イエスの心に対する完全な明け渡し、イエスの心に対する完全な奉献がなされたときには、その人は、その人自身が生きた神の国となり、イエスの心の具現化としての神の国そのものに、その人がなっているのです。

御国を来たらせたまえ!

わたしたちが主イエスから教えられた「主の祈り」における「御国が来ますように」という祈りは、以上見てきたような第一の意味での神の国の到来、第二の意味での神の国の到来、第三の意味での神の国の到来を、すべて包含しています。

わたしたちの祈りが向くのは、諸権力がキリストのしもべとして維持管理しているキリストの王国としての「この世界」において、キリストに結ばれているすべての人間が、福音の宣教の言葉を聞いて回心して、その人生の祭壇の中心に「イエスの心」を置いて、イエスの心を心として、イエスの心の具現化のためにみずからをまったくささげた生活をするようになる、ということです。これが、神の国の完全な実現への祈りです。

2013年4月3日

第二十八回公判のご報告

本日2013年4月3日(水)午前11時より、東京地方裁判所第602号法廷のラウンドテーブルにて、通称「CT対山谷裁判」の(第二十八回公判)第十六回口頭弁論準備が行なわれました。

ラウンドテーブルには、合議体裁判所から裁判長の戸田久判事と陪席裁判官の中野雄壱判事の2名、原告側から原告訴訟代理人3名、被告側から被告訴訟代理人の紀藤正樹弁護士と山口貴士弁護士と被告の山谷の3名、計8名が着席しました。

今回の公判では、被告側が第12準備書面を陳述して、前回の原告第8準備書面に対する反論を展開しました。

一方、原告側は高柳泉クリスチャントゥデイ前代表取締役社長の陳述書を提出しました。

前回の公判で、被告側が高柳氏の人証尋問(証拠となる証人への尋問)を申請したのに対して、原告側が難色を示したため、今回の公判で高柳氏が陳述書を裁判所に提出し、裁判所はそれを見た上で、高柳氏への尋問を行うかどうかを判断することになっていました。

裁判所は今回提出された高柳氏の陳述書を検討した結果、高柳氏への人証尋問を行うことを決定しました。

これをもってラウンドテーブルでの口頭弁論準備は終結し、次回はいよいよ人証尋問となります。

閉廷後に開催された「裁判説明集会」で、被告代理人の紀藤正樹弁護士と山口貴士弁護士から、今回の趣旨説明が行なわれました。

貴重な時間を割いて、全国各地から遠路傍聴に来てくださった支援者の方々に心から感謝いたします。

次回、(第二十九回公判)人証尋問は2013年5月20日(月)午前10時から午後5時までの終日(東京地裁)第712号法廷で行われます。

日程は、午前10時から原告・矢田喬大クリスチャントゥデイ代表取締役社長への主尋問と反対尋問が行われ、お昼休みを挟んで、午後1時10分から原告・高柳氏への主尋問と反対尋問、続いて、被告・山谷真への主尋問と反対尋問が行なわれます。

人証尋問は、これまでと同様に公開の法廷で行われ、自由に傍聴することができます。みなさまの傍聴支援をよろしくお願い申し上げます。

2013年3月31日

復活の日


不思議なラッパが青空に鳴り響き

イエスが

降りて来られる

数え切れないほどたくさんの

聖徒たちを従えて

 

なんて長い行列

天国に先に行った

あのひとが

このひとが

光輝く白いローブを身にまとい

喜びのダンスのステップで

降りて来る 降りて来る

ぼくたちの主の

あとからくっついて

 

ゆっくり ゆっくり

近づいて来る

地上に向かって

ぼくたちに向かって

イエスは笑っている

聖徒たちも笑っている

ひとあし ひとあし

近づいて来る

喜びのダンスのステップで

 

なんて長い行列

すべての聖徒たちが

地上に到着するまで

踊りは続く 何十時間も

地上は聖徒たちで大混雑

ぼくたちは 天国から戻って来た

あのひとや このひとと

手と手を取り合い 

肩と肩を抱き合い

泣き 笑い 歌い 踊る

死は二度とぼくたちを引き裂くことなく

永遠の復活の国で

よみがえりの主イエスの王国で

ぼくたちは一緒にすむ

いつまでも いつまでも

一緒に 

ずっと一緒に

ずっと永遠に一緒に


(初出:「詩の小箱」

まさしくわたしだ!


聖句 ルカ24:1-12・36-43

イエス様が十字架につけられたのは金曜日のことです。

ユダヤ教では、金曜日の日没と同時に、安息日が始まります。安息日には、いかなるものも運んではならない掟です。ましてや、死んだ人のからだを運ぶなど、もってのほかのことです。

ですから、十字架につけられて死んだイエス様のおからだを、どうしても日が暮れてしまう前に、急いで墓に収めなければなりませんでした。イエス様が息を引き取られたのは、金曜の午後3時頃のことです。そこから日没まで、3時間ほどしかありません。

アリマタヤのヨセフという、たいへん勇気のある人が、イエス様のおからだの引き取りを申し出ました。ほうむりをするためには、ほんらいでしたら、防腐剤である乳香や没薬をご遺体に十分にすりこんでから包帯を巻くのです。それが、ほんらいの御弔いの仕方です。

ところが、日没がどんどん迫っています。とりあえず、イエス様に包帯だけ巻いて、急いで運んで、墓に収めてしまいました。墓の扉を閉めると同時に、日が暮れて、安息日が始まったのです。

イエス様を心から慕っていた女の弟子たちは、安息日が明けたならば、まっさきにお墓に行って、イエス様のおからだに乳香と没薬をすりこんで差し上げたい。そう願いました。それができないとしたら、御弔いは半分しかできないことになるからです。

ほんとうの御弔いをするために、女の弟子たちは墓を訪ねました。すると、墓はからっぽでした。そして、天使が彼女たちに出会って、こう告げたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24:5-6)

女の弟子たちは、息せき切って走って行きました。「イエス様が復活なさった! ほんとうに復活なさった!」 このときの言葉を、ギリシャ正教やロシア正教の人たちは、今日もイースターの合言葉の挨拶として使っています。正教では、キリストのことを「ハリストス」と言います。こういう挨拶です。「ハリストス復活! 実に復活!」

しかし、男の弟子たちは、ちっとも信じようとしませんでした。むしろ、女の弟子たちは、悲しみのあまり、頭がおかしくなってしまったのだと考えました。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)と聖書にあります。

イエスキリストの復活。それは、当のキリストの弟子たち、使徒たちすら、信じることのできない、人間の理解を超えた出来事でありました。男の弟子たちは、キリストの復活をどう考えるべきか、集まって議論しました。男とは、そういうものです。何事も簡単には飲み込めない。まず集まって議論しなければならない。

そうしていると、その真ん中に、復活のキリストご自身が出現して、こう言われたのです。「なぜ、うろたえているのか? どうして心に疑いを起こすのか? わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ!」(ルカ24:36・38)

主イエスキリストは、今日もわたしたちに語りかけられます。「なぜ、うろたえているのか? どうして心に疑いを起こすのか?」 

わたしたちは今日、小隊(教会)の墓地の前に集まって、墓石を見つめています。ここに納められている人たちのために、十分な御弔いが出来ただろうか? ここに収められている人たちは、ほんとうに聖書に約束されているとおりに、終わりの日によみがえるのだろうか? そういう心の疑いがわたしたちにもあります。

だから、今日も主イエスはおっしゃるのです。「なぜ、うろたえているのか? どうして心に疑いを起こすのか? わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ!」 

この墓に納められた人たちはみな、信仰を通して主イエスキリストに結ばれている人たちですから、主がよみがえられたごとく、この人たちも終わりの日によみがえるのだと、わたしたちは信じて、待っています。終りの日に、彼らは、新しいからだ、新しい手、新しい足、新しい顔を与えられて、わたしたちの目の前に出現するでしょう。彼らは言うでしょう。「わたしだよ! まさしくわたしだよ! あなたのもとに帰って来たよ!」

復活された主イエスキリストは、驚いている弟子たちの前で、焼いた魚を召しあがりました。主イエスは、弟子たちと共に食事の交わりをなさいました。

この墓に収められている人たちが、終わりの日に復活して帰って来るとき、彼らは何か空気のような存在、精神的な存在、観念的な存在として帰って来るのではありません。一緒に焼き魚を食べることができるような、リアルな人間、ほんものの人間として帰って来るのです。そんなことがあるだろうか? 男の弟子たちが疑ったように、わたしたちもそんなことは、なかなか信じることができないのです。

しかし主イエスは今日もおっしゃいます。「なぜ、うろたえているのか? どうして心に疑いを起こすのか? わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ!」 

この主のお言葉に促されて、わたしたちは復活の信仰に今日ふたたび固く立ち直したいと思います。祈りましょう。

2013年3月30日

裁判のお知らせ

2013年4月3日(水)午前11時から東京地裁602号法廷で「クリスチャントゥデイ対山谷裁判」の第28回公判が行われます。ぜひ傍聴においでください。

詳細案内:裁判日記

今回の裁判は、5月20日(月)に予定されている人証尋問(証拠となる証人への尋問)直前の公判として、原告クリスチャントゥデイ前代表取締役の高柳泉氏が人証尋問に応じるかどうかを見極める機会となります。

みなさまのお祈りとご支援をよろしくお願い申し上げます!

経緯:「偽キリストとの闘いを回想する」

恐ろしかったからである ・・・宣教する実存としてのマルコ



「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:7-8)

マルコによる福音書には、「長い末尾」と呼ばれる終わり方と、「短い末尾」と呼ばれる終わり方と、二通りが知られています。これは、写本によって異なっておるのです。わたしたちの新共同訳聖書では、長い末尾を「結び一」として収めており、ちょうど16:9-20がそれにあたります。一方、短い末尾は「結び二」として収められております。

ところが、そもそもマルコが書いた福音書の本文には、「結び一」も「結び二」も、付いていなかったであろう、ということがわかっています。これは、古い写本の比較研究から明らかになったことです。

そうしますと、マルコがインク壷に筆を浸しつつ羊皮紙に書き進めた福音書は、わたしたちが先ほど読んだ16:8のところで終わっていた、ということになります。その最後の言葉は、こうです。「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」

「恐ろしかったからである」 この言葉をもって、マルコは福音書を終わろうとするのです。実に奇妙な終わり方です。福音書とは、ユーアンゲリオン、すなわち、喜びの訪れを伝える書、ということであります。喜びの訪れを伝える書が、「恐ろしかったからである」という言葉で閉じられている。これほど奇妙なことが、あるでしょうか?

ひとつの考え方として、主イエスキリストの復活という出来事が、人間の理解を超えた、畏怖すべき出来事であった。常識的な世界に生きているわたしたちを、骨の芯まで戦慄させるほどの、異常な出来事であった。その恐ろしさを伝えるために、マルコは「恐ろしかったからである」という言葉で福音書を閉じたのだ。そういう考え方が出来るでありましょう。

しかし、わたしたちはむしろ、この福音書を書いたマルコが、どういう人であったかを考えることによって、この奇妙な終わり方の謎が、解けるのではないかと思うのです。いったい、マルコは、どういう人であったのでしょうか?

マルコによる福音書の成立については、西暦四世紀の教会史家エウセビオスが残した『教会史』という書物の中で触れられております。このエウセビオスという人は、ローマ帝国によるキリスト教会への激しい迫害が一転して、キリスト教が公認され、さらにはローマ帝国の国教になるという、激動の時代を生きた人です。西暦325年に、皇帝コンスタンティヌスの召集により、ニケア公会議が開催され、そこにおいて「神人二性一人格」という正統教会の教義が決定されたわけですが、エウセビオスはこの会議で、皇帝の右に着席し、開会の挨拶を述べております。これほどの光栄に与ったのは、エウセビオスが教会の中でもっとも博識な人であり、当時の教会の中でも最も名が知られた著作家であったからでありました。

そのエウセビオスは、マルコによる福音書の成立について、次のように述べております。
「神への敬虔の光は、使徒ペトロの言葉を聞く者たちの精神を深く照らした。そこで彼らは、神の教えを一度聞くだけでは、あるいは、書かれていない教えだけでは、満足せず、ペトロの同伴者だったマルコに、言葉を用いて自分たちに伝えられた教えの要約を、文書に書いて残してくれるようにと、あらゆる手だてを尽くして頼み込み、その願いをマルコが承知するまで、やめなかった。
こうして彼らは、『マルコによる福音書』と呼ばれる文書を誕生させたのである。使徒ペトロは、聖霊の啓示を受けて、マルコの作品を知るや、この者たちの熱意を喜び、そして、その文書が教会で朗読されるのを承認した、と言われる。クレメンスは『ヒュポテポセイス』第六巻でこの話を紹介し、ヒエラポリスの司教パピアスも、同じくそのことを証ししている。パピアスはまた、ペトロの第一の手紙の中で、マルコのことが触れられている、と指摘している。ペトロは、第一の手紙をローマで書いたと言われる。そのことは、ペトロ自身が、『共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています』と言って、ローマをバビロンに譬えたことによって示している。
このマルコは、自分自身が書いた福音書を宣べ伝えるためにエジプトに遣わされた最初の者であり、また、アレキサンドリアに教会を建てた最初の者と言われる。エジプトでの最初の宣教の試みによって信者になった男女の数は極めて多かった」

初代教会の初めの頃、主イエスキリストの福音は、ただ、口で伝えられているだけでありました。しかし、耳で聞くだけではもの足りず、なんとしても、文字に記された教えを手に入れたい、と願った人々がいたのです。この人々は、ペトロの同伴者であったマルコに、しつこく頼み込み、とうとうマルコは根負けするかたちで、福音書を書くに至った。それからマルコは、エジプトへ出かけて行って、福音を宣べ伝えた。第四世紀の教会史家エウセビオスは、そのようにわたしたちに告げております。

マルコは、福音書記者聖マルコとして今日、エジプトの守護聖人とされているわけですが、しかし、マルコには、そのようになる以前の「過去」があったのでありました。この過去については、エウセビオスは『教会史』では触れておりませんけれども、わたしたちが聖書を読みますと、マルコが、どのような過去を歩んだ人であったのかが、手に取るように、わかるのです。

まず使徒言行録第12章を見てみましょう。そこでは、ヘロデ大王が、ユダヤ人たちの歓心を買うために、使徒ペトロを逮捕し、牢屋に投げ込んだことが記されています。しかし、主がお送りになった天使によって、ペトロは奇跡的に牢屋から解放されたのでした。夜遅く脱出したペトロが帰って来たのが、ヨハネと呼ばれていたマルコの家でした。マルコの母マリアの家、つまり、マルコの実家には、大勢の弟子たちが集まって、獄中のペトロの解放を願って、徹夜の祈祷会を行っている最中でした。

この記事を見ますと、マルコの実家は、エルサレムでも相当大きなお屋敷であったことがわかります。あのペンテコステの聖霊降臨の時に、120人もの弟子たちが集まって十日間の祈祷会をした「二階座敷」と呼ばれる場所もまた、相当に大きなお屋敷でした。ですから、聖書学者の中には、この二つを結び付けて、二階座敷はきっとマルコの家だったに違いない、と考える人もおります。二階座敷と言いますと、それはまた、最後の晩餐が行われた場所でもあります。そうだとしますと、最後の晩餐、ペンテコステ、ペトロの解放という三つの大きな出来事が、いずれもマルコの家で起きたことになり、当然マルコは、それらすべてを、自分自身で間近に目撃していた、ということを、わたしたちは考えなければなりません。

そういうマルコでありますなら、主イエスキリストの公生涯、十字架の死、復活、昇天、ペンテコステ、初代教会の設立と、すべてについて、マルコ自身が直接体験した、生き証人ということになります。主の死と復活を間近に見た、ということが、使徒として立てられるための条件でありましたから、そうしますと、マルコは使徒に準じる者、準使徒だ、と言うこともできるでありましょう。

そのようなマルコが、主イエスキリストの筆頭の弟子であるペトロの助手となって、宣教旅行のお伴をして各地を回った、というのは、自然に納得できることです。そうして、わたしたちは、使徒言行録に記された宣教旅行の記事において、マルコの「過去」に触れることになるのです。

マルコは初めは、ペトロの助手として、宣教旅行のお伴をしていたのですが、使徒言行録第13章を見ますと、今度はパウロとバルナバの助手となって、お伴をして行ったことがわかります。コロサイの信徒への手紙によれば、マルコは、バルナバのいとこである、と言われています。ペトロのもとで、多少とも宣教旅行の経験と訓練を積んだ、いとこのマルコを、バルナバは、自分の助手、また、パウロの助手として、宣教チームに迎え入れたいと願った。その願いが聞き届けられて、マルコはペトロのもとから、バルナバとパウロのもとへ、移ったのでありましょう。使徒言行録13:4にこう言われています。「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた」 このヨハネが、ヨハネと呼ばれていたマルコであります。

マルコは、パウロとバルナバの助手として、宣教旅行のお伴をしていたのですが、途中でホームシックにかかり、エルサレムのお母さんのもとへ逃げ帰ってしまいます。13:13にこう言われています。「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」

マルコは、途中で宣教チームから離脱してしまったのです。マルコは、とんだ意気地無しだったのでしょうか? 

しかし、マルコが抜けても、そのまま宣教にまっしぐらに進んで行ったパウロとバルナバが、行った先々で、どんな目に遭ったかを見ますと、ある意味、マルコの「逃げる」という判断、「逃げる」という選択は、合理的でもあり、当然でもあったように思われるのです。マルコが抜けて、進んで行ったパウロとバルナバは、ピシデヤのアンテオケで迫害を受け、イコニオンで石を投げられ、リストラでも石を投げられ、パウロは死んだような状態になってしまいます。いや、ほんとうに死んだのかもしれません。そこからパウロは、奇跡的に起き上がって、怒り狂った群集の中から脱出し、なおも宣教し続けたのです。

生きる、ということは、危険を冒すことであり、あえて危険を冒す決断をすることが、ほんとうに生きることである。このような決断に生きる人のことを、「実存」と言いますけれども、危険をかえりみずにつき進んで行ったパウロとバルナバの姿は、まさに「宣教する実存」とでも言うことが出来るのではないでしょうか。

そうして、マルコという人は、「宣教する実存」でありたいと願いながらも、「宣教する実存」になり得なかった。後ろを向いて、逃げ出してしまった人だ、と言うことができるでありましょう。

宣教する実存そのもの、あるいは、宣教する実存の燃える塊のようであったパウロからしてみれば、当然、マルコは、許すこのとできない卑怯者です。パウロは、自分の手紙の中で、「わたしは死んでもかまわない」「キリストのためなら死んでも本望だ」ということを、何度か述べています。手紙で書いているぐらいですから、宣教旅行の途上の会話の中で、パウロはそんな言葉を何度となく口にしたはずでありましょう。マルコは、そんなパウロの言葉を、どんな気持ちで聞いていたのでありましょうか? おそらく、聞くたびに、ぞっとして、自分には出来ない、自分には無理だ、お母さんのもとへ帰りたい、と思い詰めていたのではないでしょうか?

第一回の宣教旅行を終えて、エルサレム教会での会議に出席したパウロとバルナバは、会議を済ますと、自分たちの本拠地であるアンテオケ教会に戻り、小数日滞在した後、第二回の宣教旅行に出発いたしました。このとき、バルナバは、あの途中で逃げ帰ってしまったマルコを、「今度こそ」という思いをもって、連れて行こうとしたのです。しかし、パウロは、どうしてもマルコを許すことが出来ませんでした。使徒言行録15:37-39にこう記されています。「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきではないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになった」

二度目のチャンスをマルコに与えてやりたい。そうバルナバが考えたのに対して、パウロは、一度つまずいた者に二度目のチャンスを与えようとは考えませんでした。バルナバには「慰めの子」という意味がありますが、パウロが宣教に命がけで燃えて、燃え尽きるタイプであったのに対して、バルナバは、どこまでもやさしく、包み込むような、優れた牧会者のタイプであったようです。

パウロの判断は、あまりに気の短い、頑固な判断だったのでしょうか? わたしたちはここで、パウロを批判したくなるかもしれません。しかし、マルコの参加を拒否して宣教へとつき進んで行ったパウロが、その後、行った先々でどんな目に遭ったのかを見てみますと、いや、むしろ、パウロは本当はマルコのことを心配して、参加を拒否したのではあるまいか、とすら思われるのです。フィリピで、パウロの一行は投獄され、何度も鞭で打たれます。テサロニケでは、暴動を起こした群衆に襲われます。アテネでは、教養人たちに鼻で笑われ、無視されます。コリントでは、口汚くののしられ反対されます。もしマルコがお伴に加わって、そこに一緒にいたら、と想像したら、どうでしょう? マルコが、それらの試練に耐えることが、出来たでしょうか? 大いに疑問だと言わねばなりません。それゆえ、バルナバがマルコを心配して、一緒に連れて行こうと思ったのと同じぐらい、あるいはそれ以上に、パウロはマルコを心配して、一緒に連れて行くのに反対したのです。

さて、宣教チームへのマルコの参加を拒否したパウロは、燃え上がるような「宣教する実存」として、第二回の宣教旅行に出発して、各地で苦難に遭いながらも、教会の基礎を固めて、戻って来ました。パウロが語る報告を聞いて、あの、拒絶され、おいてけぼりにされたマルコは、どんなふうに感じたことでしょう? つくづく自分のことを、意気地の無い弱虫、卑怯者、信仰の薄い者、というふうに感じたのではないでしょうか?

そのマルコは、しかし、「宣教する実存」であろうとすることを、やめてしまったわけではありませんでした。教会史家エウセビオスの述べるところによれば、マルコは、その後、再びペトロのお伴となって、一緒に宣教旅行をし、ローマにまで行ったことが、わかります。そうして、そこへ、ローマへ、皇帝の裁判を受けるために、使徒パウロも遅れて到着するのです。皇帝の裁判が開始されるまで、ローマで軟禁状態に置かれたパウロは、いわゆる獄中書簡と呼ばれるエフェソ書、フィリピ書、コロサイ書を、ローマで書いたわけですが、この獄中書簡には、マルコの名前が出てまいります。コロサイの信徒への手紙4:10に、こう記されています。「わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです」

わたしたちは、ここを読むときに、なんだか嬉しくなるのではないでしょうか。ここには、パウロから任務を委ねられて、ひとりでローマからコロサイへと、今まさに旅立とうとしているマルコ、まさに「宣教する実存」として、生き生きと活動しようとしている、わたしたちのマルコの姿を、見ることができるからです。

そうしますと、マルコという人は、ひとたびは「宣教する実存」として生きようと決意したにもかかわらず、恐ろしくなって、背を向けて、逃げ出してしまった人であります。逃げ出してしまったのだけれど、それでも「宣教する実存」として生きたい、という願いを持ち続けた人であります。その願いは、パウロによって、ぴしゃりと冷水を浴びせられるように拒絶されてしまうのです。しかし、マルコは、ついには「宣教する実存」として、パウロと肩を並べて、一緒に福音を宣べ伝える、というふうにまで、なった人なのです。

ひとたびは「宣教する実存」として生きようと決断していながら、恐れのために、そこから逃げ出してしまう。この逃亡を、「宣教する実存からの退落」とでも言うことができるでありましょう。そうして、マルコが、ひとびとからうるさくせがまれて、しぶしぶ福音書を書いてみる気持ちになったとき、彼の心の中にふつふつと沸き起こって来たテーマは、「宣教する実存」そうして「宣教する実存からの退落」であったのではないでしょうか?

そのように考えて、マルコによる福音書を見てみるならば、その冒頭、いきなり洗礼者ヨハネが、荒れ野で宣教している姿を、わたしたちは見させられます。その姿は、まさに、命がけで「宣教する実存」であります。そうして、すぐ、わたしたちは、主イエスがヨルダン川で聖霊を受ける姿を見させられます。イエスは、荒れ野の誘惑に打ち勝たれて、すぐに、宣教に出て行かれます。そうして、ガリラヤ湖のほとりで、漁師たちに会い、彼らを弟子としてお召しになります。すなわち、「あなたがたも『宣教する実存』になりなさい」という召命を、お与えになるのです。弟子たちは、すぐ、イエスに従います。そうして、イエスは、町から町、村から村とめぐり歩いて、宣教されるのです。1:38で、主イエスはこのように言われます。「わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」

これだけのことが、わずか第一章において、すべて、わたしたちに見させられるのです。まさに、宣教することが、生きることである。マルコは、主イエスキリストを「宣教する実存」として、捉えておりました。マタイは、第一章を、系図に費やしました。ルカは、第一章を、マリアとエリサベトの物語に費やしました。ヨハネは、第一章を、深遠なキリスト論に費やしました。しかしマルコは、ただ「宣教する実存」に、関心があったのです。

そうして、マルコは、福音書において、「宣教する実存」が遭遇するところの苦難について、記すのです。洗礼者ヨハネは、逮捕され、投獄され、首を切られます。主イエスキリストは、人々の手に引き渡され、殺されます。「宣教する実存」が遭遇するところの苦難を見て、イエスの弟子たちは、次々に、逃げ去ります。あのガリラヤ湖のほとりで、「あなたがたも『宣教する実存』になりなさい」との召命を受けて、主イエスに従った弟子たち。ペトロに至っては、「先生と共に死なねばならないのなら、死にます」とまで宣言していました。確かに、弟子たちは、召命の原点において、命がけで「宣教する実存」になろう、という決断をした人たちでありました。しかし、主イエスは捕らえられました。主イエスは殺されようとしております。その時、弟子たちはみな、恐れたのです。主イエスを見捨てて、逃げ出したのです。まさに「宣教する実存からの退落」が、弟子たちに起きていたのです。

マルコは、「宣教する実存からの退落」を、実によく理解することができました。なぜなら、マルコ自身が、そのように、逃げた者、背を向けた者、宣教する実存から退落した者であったからです! それゆえ、主イエスがゲッセマネの園で捉えられた、暗い夜の描写の中に、裸になって逃げて行く若者の姿が差し挟まれていることに、わたしたちは注目させられるのです。わたしたちは、これはおそらく、マルコ自身の姿であろう、と考えざるを得ないのです。14:51にこう記されています。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」

イエスについて行きたい。「宣教する実存」として生きたい。そう願いながらも、恐ろしくて、逃げ出してしまったマルコ。マルコは、自分自身の姿を、この、裸になって逃げた若者として、ゲッセマネの園に置いたのではなかったでしょうか?

このようにして、マルコは、宣教から逃げ出した自分の裏切りを、主の十字架の前における、あのペトロの裏切りの中に、重ね合わせて、見ているのです。あの暗い夜、ペトロは、「わたしはイエスなど知らない」と三度も誓って、主を裏切ったのでした。その裏切りの罪の恐ろしさ、苦しさ、悲しさについて、ペトロは、マルコに、何度も何度も、涙ながらに語ったことがあるに違いありません。ペトロとマルコが宣教旅行で寝起きを共にする、その生活の中で、ペトロは、自分がどのような「過去」を歩んできたのかを、マルコに、つぶさに語ったことでありましょう。

しかしまた、マルコは、そのペトロから聞かされて、知ったのです。「宣教する実存」が、恐れのために、逃げ出し、退落することがあるとしても、主イエスキリストは、再び、お招きになる。それでも「宣教する実存」になりなさいと、二度目の召命をお与えになる。実に、この二度目の召命があればこそ、いまペトロは使徒として、マルコの目の前に立っているのでした。

主イエスが復活されて、ガリラヤのほとりでお与えになった、二度目の召命について、ペトロは、つぶさにマルコに語ったに違いありません。主を裏切ってしまったペトロに対して、復活の主イエスは、「おまえはわたしを愛するか」と問いかけられて、再びペトロを弟子として、「宣教する実存」を生きる者として、お召しになったのです。これが、二度目の召命であります。

主イエス・キリストが再びお会いくださる。それは、原点において、すなわち「召命の原点としてのガリラヤ」において、であります。一度目に、主イエスは、ガリラヤにおいて、「宣教する実存」になるようにと、弟子たちをお召しになりました。二度目に、主イエスは、やはりガリラヤにおいて、「宣教する実存」になるようにと、失敗した弟子たちを、お召しになりました。

この、二度目のガリラヤへと、主イエスキリストは、わたしたちを招いておられます。主イエスは、わたしたちに先立ってガリラヤへ行かれ、この、二度目のガリラヤにおいて、すなわち、わたしたちの召命の原点において、わたしたちを待っておられます。

福音書記者マルコは、このように記します。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」

「先に行って待っておられる」という主の約束。この約束に対する信頼のうちに、ペトロは、弟子たちは、ふたたび、献身と服従の決断をいたしました。失敗、裏切り、逃亡、それにもかかわらず、再び「宣教する実存」として生きることを、決断したのです。

主は「先に行って待っておられる」と、いまや、告げられております。この、召命の原点に帰るようにとの招き。この、再献身への招きが、いま、なされております。しかし、それを聞くマルコは、恐れるのです。かつては自分も「宣教する実存」であったが、ひとたびそこから退落し、いまは主体性を失って、失望のうちに沈んでいる。しかし、マルコは、再献身の招きを受けるのです。「それでもなお宣教する実存たれ」と、主イエスキリストから呼ばれるときに、マルコは、恐れおののかざるを得ないのです。

福音書記者マルコは、記します。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」

かつて「宣教する実存」として生き、そうして失敗し、逃げ去った者たちはみな、「宣教する実存」として生きる者に、何が待ち受けているかを、自らつぶさに見て、知っております。すなわち、反対する者たちが「口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」「二人に乱暴を働き、石を投げつけようとした」「パウロに石を投げつけ、死んでしまった」「何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込んだ」「足に木の足枷をはめておいた」「暴動を起こし」「家を襲い」「あざ笑い」「法廷の前で殴りつけ」「パウロを殺そうとしていた」 こういうことが、「宣教する実存」として生きる者たちを、待ち受けているのであります。

それらを知っているゆえに、マルコは、逃げ出したのです。そうして、主イエスキリストは、そこへ、そういうことの中へ、「宣教する実存」として生きることの真ん中へ、戻って行くようにと、再びマルコをお呼びになっているのです。だれが、恐れおののかずにおられましょうか! しかも、この恐れおののきの中に、決断することが、わたしたちに、求められているのです。

この「決断」を迫られる者は、すべてみな、恐れおののきます。マルコは、恐れおののきました。マルコはまた、その同じ恐れおののきのうちに決断することを、福音書の読者すべてに、迫ろうとしているのです。

この「決断」が、今日、わたしたち、マルコの福音書を読むひとりひとりに、求められている決断であります。

わたしたちは、この恐れおののきのうちに、いかなる決断をするのでしょうか? わたしたちの二度目のガリラヤにおいて、わたしたちは、いかなる決断をするのでしょうか?

この二度目のガリラヤにおいて、「はい、主よ、わたしをお遣わしください」という決断をする者たちには、次のような結論が、待っております。すなわち、マルコ自身が書いたのではないが、マルコの精神の要約として最も適切なるものとして、マルコではない誰かが福音書の末尾に付けた、あのもうひとつの「結び」であります。「その後、イエス御自身も、東から西まで、彼ら(すなわち「宣教する実存」としての彼ら)を通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」

実に主イエスキリストは、「宣教する実存」として生きる決断をした者たちの中で、その者たちを通して、その者たちの内に、その者たちと共に、生きて、働きたもうのであります。「宣教する実存」として生きる者たちを通して、主イエスご自身が、宣教のみわざを行いたもうのです。

その時、世界の中心は、もやは、エルサレムには、ありません。世界の中心は、アンテオケにも、ありません。世界の中心は、ローマにも、ありません。世界の中心は、「宣教する実存」として生きる者たちのうちに生きたもう、主イエスキリストご自身に、あるのです。

わたしたちの二度目のガリラヤにおいて、主イエスキリストは、わたしたちを待っておられます。主イエスキリストは、わたしたちをお呼びになります。当然のことながら、わたしたちは、マルコと共に恐れおののくのです。わたしたちは、どのような決断をするのでしょうか? 祈りましょう。


祈り

わたしたちの主イエスキリストの父なる神。あなたは、宣教という愚かさを通して、人間を救うこととされました。実に、神の愚かさは、人間の知恵に優っております。
主イエスキリスト。あなたは「宣教する実存」として、生きられました。「宣教する実存」として、死なれました。「宣教する実存」として、復活なさいました。そのあなたが、わたしたちをお召しになります。「あなたも、宣教する実存として、生きなさい」と、わたしたちをお召しになります。
わたしたちは今日、わたしたちの二度目のガリラヤに戻って来ております。わたしたちの召命の原点に、帰って来ております。今日、あなたの召しに対するわたしたちの決断を、恐れおののきのうちに、なすことができますように。「宣教する実存」として生きる者に、何が待っているのか。わたしたちはみな、それぞれが、つぶさに経験してまいりました。それゆえに、わたしたちは恐れおののきます。
この恐れおののきのうちに、どうかわたしたちが、「はい」と応答することができますように。「主よ、ここにわたしがおります。わたしをお遣わしください」という祈りをすることができますように。
そのように決断した結果、主イエスご自身が、東から西まで、わたしたち、すなわち「宣教する実存」として生きるわたしたちを通して、主ご自身が、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広めたもうということを、身をもって経験させてください。
主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

2013年3月25日

受難週の黙想


棕櫚の日曜日 (マタイ21:1-11)

メシアの来臨について、昔のラビたちはこのように預言しました。

人々が心の備えが出来ていたなら、メシアは「光る雲」に乗って、来られる。

人々が心の備えが出来ていなかったら、メシアは「ロバの子」に乗って、来られる。

「ロバの子」は、心を冷たく閉ざしているわたしたちへの、主の哀れみのしるしです。



月曜日 (マタイ21:12-17)

祈りの家が、商売のために占領されていました。

柔和なイエスは、お怒りになり、鞭でもって商人を追い出してしまわれました。

イエスは、今日も、わたしたちの心の中に、鞭をもって入られます。

わたしたちの心の中をきよめて、生きた神殿、祈りの家としてくださいます。



火曜日 (マタイ22:34-40)

「神を愛しなさい。そして、隣人を自分のように愛しなさい」

イエスは、わたしたちの隣人となってくださいました。

イエスは、ご自身を愛する以上に、隣人であるわたしたちを愛されます。

その愛の極みのゆえに、命まで捨てて、愛のあかしをくださるのです。



水曜日 (マタイ25:31-40)

飢え、渇き、宿がなく、裸で、病気で、牢にいる人々。

イエスはご自身を、それらの人々と、ひとつに結び合わされました。

「彼らの中に、わたしがいる」と、宣言されたのです。

イエスは十字架の苦しみにおいて、小さき者たちと、痛みを共にされます。



木曜日 (マタイ26:26-30)

過越の食卓上の「苦菜」は、わたしたちの苦悩の象徴です。

神の小羊であるイエスが、わたしたちの苦悩をすべて取り、担ってくださいます。

過越の食卓上の「四つの杯」は、イエスが身代わりに飲み干す犠牲の杯です。

イエスは、頭から、右手から、左手から、足から、血を流されます。



聖金曜日(受難日) (マタイ27:32-44)

イエスは、神に捨てられ、打たれ、傷つけられました。

神に見捨てられた「神」。神に裁かれた「神」。神に罰せられた「神」。

十字架の上で、イエスは、わたしたち呪われた罪人と完全に一体となられました。

神に見捨てられ、裁かれ、罰せられた、その底の底で、わたしたちと結び合うイエス。



土曜日 (1ペテロ3:18-19)

死んだイエスの霊は、黄泉の底へ、地獄へと降下して行きました。

内から固く閉ざされている地獄の中へすら、イエスは入って行かれました。

捕らわれの霊たちを、恵みと赦しをもって、救い取るために。

わたしたちの心が、たとえ地獄であっても、イエスは入って来ることが出来ます。



復活の日曜日 (マタイ28:1-10)

天使は言います、「十字架につけられたイエスを捜しているのか?

あの方はもう、ここにはおられない」

罪のつぐないは完了し、イエスはもう十字架の上におられません。

わたしたちの罪はすでに、すべて、赦されました。主がすでに復活されたからです。



─受難週のための詩─

「釣浮草」
「苦痛」
「わが神、わが神、なぜ…」
「過越しの食卓」
「ルオーの絵」
「聖餐式」

2013年3月23日

ゲッセマネ


涙の祈りを終えたイエスが

弟子たちに 近づくと

だれもかれも 気持よさそうに

寝息をたて 眠っていた

 

イエスは ひとり 祈っている

そして

苦しむイエスのために 祈る者は

今夜も だれも

いない

 

涙の祈りを終えたイエスが

私たちに 近づくと

私もあなたも 気持よさそうに

寝息をたて 眠っている

 

イエスは また ひとり 祈りにもどる

そして

わたしたちに 安らぎを与えるために

今夜も ひとり 

目覚めて いる


(初出:「詩の小箱」

2013年3月20日


木を切り倒すと不幸になる、なんて、土地の古老がよく言うじゃありませんか。あれって、ぼく、ほんとうなのかもしれないなあ、って、思うんですよ。え? 迷信深いって? そうなのかなあ。ほら、古木を切って、怪我したとか、病気になったとか、仕事が急につまづいたとか。いや、ね、別に、統計なんか取ったわけじゃないですよ。木を切ったひとみんなに、そんな、なにか、説明不能な災いが、いつも必ず起きるって、統計論的に明らかだとか、そういうことを言ってるんじゃないんですよ。

それはねえ、ぼくのおじいちゃんが、むかーし、不思議な話をしてくれたからなのかもしれない。きっとそのせいなんだなあ。今もって、木を切るのに反対なのは。

実家の庭には、木が何本か生えていましてねえ。柿の木とか、松の木とか、椿の木ね。金木犀とか、ツツジもあったのかなあ。とにかくなんだか、いろいろ、鬱蒼と生えていたんですよ。兄弟従弟みんなでグルになって、ジャングル探検隊ごっこが出来るぐらいだったからねえ。ええ、もちろん、夏なんか、藪蚊がすごかったですけどねえ。

でね、おじいちゃんは、絶対に、木を切らせようとしなかったの。うん。うちのおやじなんか、気が短いほうだからね。なんでもすぐ、切る切るって言うんだ。あるときなんか、のこぎりで、おやじが勝手に梅の枝を一本落としちゃったもんだから。怒ったなあ。おじいちゃん。しばらくは、おやじと口、きかなかったもん。

でねえ。ある日、ぼくが六歳ぐらいの頃だったのかなあ。おじいちゃんに聞いたんだ。「ねえ、なんでおじいちゃんは、木を切ると怒るの?」ってねえ。

そうしたらね。不思議な話を聞かせてくれたんだなあ、おじいちゃんが。隠居の三畳の間の小さなこたつに、一緒にあったまりながらねえ。おじいちゃんの好きな黒飴だの落雁だの砂糖せんべいだの食べさせてもらいながらね、聞いたんだ。その不思議な話を。もうだいぶ、記憶から薄れ始めてはいるんですけどね。


そらそら、落雁の粉が落っこちてるじゃないか。もっと、ぐっと、こたつに寄りなさい。ぐっと。そうそう、それで、こたつの布団を下に引っ張りおろして。そうそう、それでいい。こぼすと、おじいちゃん、また、おばあちゃんに怒られちゃうからね。

どこから話をしたらいいかな。おじいちゃんが、木を切らないのはね、わけがあるんだよ。

あれは、日中戦争がひどくなり始めた頃のことだったなあ。わからないだろうねえ。戦争だなんて言ったって。小学校に上がって、だいぶお兄ちゃんになったら、少しは勉強するようになるかな、戦争のことを。

戦争っていうのは、人と人が殺し合うことだよ。悲しいことだねえ。その頃、日本はおとなりの中国にまで出かけていって、鉄砲を撃ったり、大砲を撃ったりして、戦争をしていたんだよ。おじいちゃんは、兵隊さんではなかったんだけど、お仕事で北京に行っていたんだ。北京っていうのは、中国で一番大きな町だよ。冬はとっても寒いところだったねえ。

あの頃は、男はだれでもみんな、兵隊さんにならなきゃいけなかったんだけど、おじいちゃんは、若い頃から痔がひどかったんだよ。痔っていうのは、おしりが痛くなって、座っていられない病気だね。で、男はだれでもみんな、徴兵検査というのを受けさせられたんだ。ちゃんとへこたれずに兵隊さんをやれるかどうか、テストされたんだね。おじいちゃんも、テストを受けたんだけど、それがねえ。騎兵隊のテストだったんだ。騎兵隊っていうのはねえ、お馬さんに乗って戦争する兵隊さんのことだよ。おじいちゃんは、おしりの病気だったから、馬の上に座っていることができなかったんだよ。おしりが痛くて痛くて、とても馬になんか、乗っていられなかったからねえ。だから、兵隊さんのテストに不合格になっちゃったの。それで、おじいちゃんは、とうとう戦争に行かずに済んでしまったんだねえ。

兵隊さんになれなかったから、おじいちゃんは、碍子っていう石を売っている会社で、サラリーマンをしていたの。碍子って、ほら、電信柱の上の方に、白い石がくっついているでしょう。あれが、がいし、だよ。電気がびりびりっ、と流れて、人が感電してしまわないように、電気を止めてくれる大切な石が、碍子なんだね。

おじいちゃんは、その碍子の会社の出張で、中国の北京まで行って、お仕事をしていたんだよ。中国人のお友達もたくさんできたよ。だけれども、だんだん戦争がひどくなってきて、おじいちゃんは中国を引き上げて、東京に戻ってきたの。とっても寒い冬の日のことだったなあ。おじいちゃんが東京に戻って来たのは。そのときに、とっても不思議なことが、起きたんだよ。


省電の駅を降りると、商店街を抜け、狭い路地の近道を通り、しばらくして、家がまばらな、立ち木のある、畑などもまだ残っている住宅地に出た。この辺は近頃、東京のホワイトカラーがどしどし越して来て、昨日まで畑だったところに、今日はもう、小さな和洋折衷の、つつましい家が建っているほどに、急に開けて来ている土地だ。

楠木などは、落ち葉がたいへんだし、日陰になっては洗濯物が乾かなくて、しょうもないから、新築前にすっかり切り倒してしまう家が多い。たばこ屋の角に、まだだいぶ大きな木が、このあいだまで立っていたのに、ひさしぶりに帰ってきてみると、あとかたもなくなっている。

そんなことは別に、なんとも思わない。国がどんどん改造されつつある御時世だから、切らねばならいものは、なんでも、どんどん切ってしまうより、仕方がない。ちょっと待て、なんて、言ってられない。そんなことをしていたら、「バスに乗り遅れてしまう」というんだから。まったくどうしようもないことだ。なんと思ったって、どうしようもない。だれがどう言おうったって、どうしようもない。

そんなことを考えながら、ふと、道の先の方に目をやると、まことに不思議な光景が映ったのだ。一瞬わが目を疑った。数間先の道路端の立ち木の根元あたりに、背の丈五センチメートルほどの「ひとのかたちをしたもの」が、なにやら一生懸命、荷物を運んで、難儀している様子ではないか。その場に立ち尽くし、息を呑んで見つめていると、おやおや、とうとう重荷に耐えかねて、地べたにへたり込んでしまった。なんだか途端に気の毒に思えて、急いでそばに近づき、手を差し伸べて、「小さな人」を今にも押しつぶしそうな荷物を、つまみ上げてやろうとした。その途端、目の前が暗くなり、意識が深いトンネルに、奈落の底に、すいーっと、吸いこまれて行って、それきり何も、わからなくなった。


「宙覧台の天使が言っていたように、時間きっかりにやってきましたね。一分と違いがない」

「北京からやって来たこの男が、今日の午後、自分の家の庭の楠木が気に入らなくて、庭師を呼んで、切り倒してしまうのだ」

「切り倒してしまう動機については、すでに報告を受けている通りです。この時代の重苦しい閉塞感のためが八割、仕事の重荷が一割、家族と上手く行かないことが残りの一割です」

「楠木を切り倒したら、大変なことになりますね」

「それが、今日の午後、起こるのです」

「きっかり、そうです。そうなるはずになっています。しかし、それを阻止するために、こんな乱暴な方法しか、なかったのでしょうか?」

「宙覧台の天使は、いろいろ試みたようだが、どれも失敗してしまったのだ。不確定性原理を一時的に変更して、こちらの都合に確定させてしまうための多重連立重力方程式が、ちっとも上手く計算できなかったのだ。わたしもかつて、何度か試みたことがあるのだが、あれは、手に負えぬ代物だ」

「そうしますと、この目の前に横たわっている男を、どうします?」

「眠っているままに、語りかけるのだ。その、心の耳に、透き通った、暗く、深い、青色の声で、語りかけるのだ、われわれの『木』の秘密を」

「その準備は、万端整っています。昨日からもう百遍は練習済みですから」

「じゃあ、諸君、さっそく取り掛かろう」


御仁。よく聞かれよ。深き眠りの、そのままに、心の耳で、聞かれよ。

その昔、造物主は、そなたらの宇宙の前に、もうひとつの宇宙を、お造りになられた。その古き宇宙は、星々の住人の「悲しみ」のために、押しつぶされて、滅びてしまった。地は形なく、空しくなり、混沌となり、深き闇が淵のおもてを覆うに至った。

そこで、造物主は、新しき宇宙を、お造りになられた。だが、二度の轍を踏まぬために、主は策を講じられた。造物主はまず光を造り、地を造り、そうした上で、「木」をお造りになられたのだ。

この「木」が、新しき宇宙の、無数の星々の住人の「悲しみ」を、すべて残らず吸い取るようにさせて、もはやふたたび、宇宙が滅びることがないようにと、お定めになられたのだ。

造物主は、どういうわけだか、そなたら人間に、自由意志をお授けになられた。人間が、自由な意志を持たないならば、永遠不変に、単一の意志を持って、機械的に、隷属的に、絶対的に、神の御意志に沿うて歩んだであろうものを。しかし、造物主は、われら天使の理解をはるかに超えた御経綸をもって、事を定められたのだ。すなわち、自由な意志からのみ、真実の愛が発露するのであり、そのような愛のみが、造物主のお心に、唯一適うものなのだ。

さすれば、たとえ、そなたら人間が、自由意志を誤って用い、神に反逆し、地上に幾多の痛みと悲しみをもたらす事態が生起しようとも、なおそれらを越えて、造物主は、真実の愛の発露を、忍耐深く待つこととされたのだ。

そのためには、重き悲しみに耐えかねて、宇宙が押しつぶされぬよう、手立てが要ったのだ。そうして、それがためにこそ、「木」が、必要であったのだ。

御仁よ、そなたは知らぬまいが、この宇宙のすべての木は、その葉の一枚一枚が、われら無数の天使の化身であるのだ。われら天使は、緑深き葉に姿をやつして、じっと「風」に身をまかせ、待つのだ。風を、待つのだ。風は、地の四方のあちらから、こちらから、そなたら人間の、痛みと、悲しみと、怒りと、嘆きとを、運んでやって来る。重い重い風となって、やって来る。葉となりし、われら天使は、その痛みと、悲しみと、怒りのすべてを、この身に、溢れるまでに吸い取って、ついには病み、衰え、枯れて、枯れ果て、落葉するのだ。

そのままであるならば、われら天使は、すべて、死なねばならぬであろう。滅びねばならぬであろう。だが、造物主は、もうひとつの手立てをも、お備えになられた。

葉となりし、われら天使が吸い取った、すべての痛みと悲しみは、枝を通して集められ、幹を運ばれ、地に集められ、小人たちの手で、瓶に詰められて、「時間の穴」へと送り出される。あらゆる時代の、あらゆる場所の、あらゆる人の、あらゆる悲しみを詰めた、無数の瓶が、重い重い瓶が、無数の時間の穴を通って、運ばれて行く。運ばれて行く。ただひとつの場所に、運ばれて行く。

御仁。そなたも、その場所の名を、一度ならず耳にしたことがあろう。「されこうべ」と呼ばれる、その「悲しみの集まる場所」を。

宇宙のすべての悲しみ、そなたら人間のすべての悲しみは、空いっぱいに枝と葉を広げた「木」によって、集められ、瓶詰めされて、「されこうべ」へと、送られるのだ。その「されこうべ」で、造物主は、十字架にかかりたもうた。造物主おんみずからが、十字架にかかりたもうた。そうして、宇宙から絶えず集められる、すべての痛みと悲しみとを、十字架の上で、残らず吸い取ってくださった。時を越えた「されこうべ」で、造物主は、今も、十字架の上におられ、そなたら人間の悲しみを、吸い取り続けておられる。造物主は、吸い取り続けておられる。そなたらの悲しみが、果てしのない、無限の悲しみであろうとも、造物主は、それを残らず吸い取ってしまうことが、おできになる。なぜなら、造物主は、無限のお方であられるから。

御仁。それで、わかったであろう。そなたが今日の午後、切ることになっていた「木」は、切ってはならぬのだ。葉となりし、われら天使は、すでに隣りの国で、殺された多くの者たちの痛みと悲しみを吸い取って、枯れ果て、「されこうべ」へと、送り出した。しかし、悲しみはそれで、終わることはない。そなたの住む東京、そなたの住む町の界隈は、もう何年かすれば、空から降り注ぐ滅びの炎で灰燼と帰すであろう。そなたの隣人、そなたの同胞の多くが殺され、痛みと悲しみとが、この地に満ちるであろう。そうして、そなたの切り倒そうとしている「木」が、その時来たりなば、すべてを吸い取って、「されこうべ」の十字架へと、送り出さねばならぬのだ。これは、何者によっても妨げられてはならぬ、大切なわれら天使の使命なのだ。それが出来ぬとあらば、そなたの住む宇宙は、悲しみの重荷に押しつぶされて、次の瞬間にも、滅び去り、混沌に帰すであろう。

それゆえに、切ってはならぬ。


そりゃあね、おじいちゃんが、本当にそんな不思議なことを体験したのかどうか、ぼくにはわからない。だけれども、もしそうだったら、どんなにか、いいだろうと思うんですよ。なんだかこうね、救われる気がするんだ。ああやって、木が空いっぱいに、伸びている。広がっている。枝を広げている。その枝のひとつひとつが、その葉の一枚一枚が、この町の人たちみんなの、悲しみだの、怒りだの、憤りだの、痛みだのの、すべてを残らず吸い取っていてくれるのだとしたら。

だからねえ、ぼくは、どんな木でも、切る気がしないんですよ。

(初出:「詩の小箱」

2013年3月18日

裏切ってもなお

聖句 マルコ14:27-31

イエス様の十字架の苦しみをおぼえる受難節の季節が近づいて来ました。

イエス様は、ご自分が十字架にかかる時が近いことを知り、弟子たちに、覚悟を決めるようにと、いろいろな言葉をもって、さとされました。それは、このような教えでした。

「わたしについて来たいと思う人は、自分を捨て、自分の十字架をしょって、わたしについて来なさい」

「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」

「自分の命を救おうとする者は、それを失い、自分の命を捨てようとする者は、かえって命を得る」

「人々の前でわたしを知らないと否むなら、わたしの父もまた、世の終りの裁きの時に、あなたのことを知らないと言うであろう」

なんと厳しいイエス様の教えでしょう。それは、まるで、弟子たちに何かを挑むような、イエス様の真剣なまなざしを、思わさせます。

このようなイエス様からの挑戦を受けて、弟子の中で一番自信と力にあふれて、たのもしい言葉を返したのが、ペトロでした。

ペトロは、こう宣言しました。「イエス様、たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」

ほかのところで、ペトロはこうも言っています。「イエス様、たとえどこであろうと、わたしは最後まであなたについて行きます。」

ペトロは自分に自信があったのでしょう。ペトロは、自分の強い信仰、なにごとにもイエス様を第一とし、イエス様のために本当に命を捨てる覚悟を決めている自分の信仰に、ものすごい自信があったのです。

ほかの弟子たちは、ペトロのそのような自信に満ちた姿を見て、すごいなあ、立派だなあ、さすがペトロだなあ、わたしたちには、あそこまで覚悟を決めることができない、ペトロの信仰は本物だなあ、と、恐れ入っていたかもしれません。

ペトロの自信に満ちた信仰こそが、本物の信仰だとしたら、わたしたちも、ペトロに見習って、揺らぐことのない自信や、勇気や、確信や、大胆さや、いつでも命を捨てる覚悟、そういったものを身につけて行く必要があるかもしれません。

しかし、自信に満ちた、揺らぎない確信に満ちたペトロの信仰が、実は、ペトロを救うことが出来ず、いざというときに役にすら立たない、ということを、イエス様のするどい目は、すでに見抜いておられたのです。

イエス様は、そのことを見抜いて、はっきりこうおっしゃいました。

「はっきり言っておくが、あなたは、今日、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」

まさか、そんな、一番自信に満ちた、一番強い信仰を持っている、一番大胆なペトロが、まさかイエス様を裏切るなんて、そんなことが、あるわけがない、と、弟子たちはみんな思ったことでしょう。

なによりも、そんなことをイエス様に言われて一番心外に思ったのは、ペトロ自身でした。

ですから、ペトロはすぐにこう反論しました。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは申しません。」

たしかに、そうであったでしょう。ペトロは、本当に、イエス様のために命を捨てる覚悟が出来ていたことでしょう。そうして、ペトロは、実際に命を捨てることが出来たでしょう。ペトロには、それだけの強い信仰がありました。

しかし、その強さは、「神の恵み」から静かにあふれ流れ出てくる強さではありませんでした。それは、むしろ、ペトロ自身が生まれながらに持っていた、性格的な強さでした。

イエス様はすべてご存知でした。人間の強さは、人間を救うことが出来ない、ということを。ペトロ自身の強さは、ペトロを救うことが出来ない、ということを。ペトロが強ければ強いほど、そうして、ペトロが自分の強さというものを誇りに思い、それを頼りにし、それを確信していればいるほど、一番大事なときに、その強さが、ペトロ自身を裏切ることになるのだ、ということを、イエス様は、静かに見抜いておられたのです。

わたしたちがみな知っているように、イエス様が捕らえられた晩、ペトロは、三度、イエス様のことを知らない、と言って、イエス様を裏切ってしまいました。

ペトロは、自分の強さを信じていました。その強さ、ペトロ自身の強さが、その夜、ペトロを裏切ったのでした。ペトロがイエス様を裏切ったのではありません。ペトロはそのようなことをまさか自分がするとは思っていなかったのです。むしろ、ペトロ自身の強さが、ペトロ自身を、三度、裏切ったのです。

わたしたちは、信仰とはなんであろうかと、たびたび、自分自身に問いかけます。それは、最後まで疑わずに信じ抜く、心の強さなのであろうか。それが、信仰なのであろうか。暗闇の経験の中で、少しも揺らぐことのない、心の強さ、それが、本物の信仰なのであろうか。イエス様のために、命を捨てる覚悟が出来ており、また、いつでもそれが実行できるほどの心の強さ、それが、本物の信仰なのであろうか。

そのような、強さが、信仰であるとしたら、それはまさに、ペトロ的な強さであろうと思います。そのような強さを、わたしたちも持つことが出来るでしょうか。出来るかもしれません。わたしたちも、ペトロのように強い人となり、自分にゆるぎない自信と確信を持てるようになれるかも知れません。

しかし、わたしたちは、ひとつの事実を知っています。あの受難日の夜、まさにそのペトロの強さが、ペトロ自身を裏切ったのです。そうであるならば、わたしたちもまた、いつの日にか、自分自身の強さに裏切られる経験を、必ずするに違いありません。

イエス様は言われました。

「わたしについて来たいと思う人は、自分を捨て、自分の十字架をしょって、わたしについて来なさい」

しかし、その夜、ペトロは、自分を捨てることが出来ませんでした。ペトロは自分の十字架をしょうことが出来ませんでした。ペトロは、イエス様について行くことが出来ませんでした。

イエス様は言われました。

「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」

しかし、その夜、ペトロは、鋤に手をかけて、そうして、後ろを振り返り、自らを神の国にふさわしくない者としたのでした。

イエス様は言われました。

「自分の命を救おうとする者は、それを失い、自分の命を捨てようとする者は、かえって命を得る」

しかし、その夜、ペトロは、三度も「イエスなど知らない」と言って、自分の命を守り、自分の命を救おうとしたのでした。ペトロは、自分の命を救おうとしたことにより、かえって、霊的な命、永遠の命を失ってしまいました。

イエス様は言われました。

「人々の前でわたしを知らないと否むなら、わたしの父もまた、世の終りの裁きの時に、あなたのことを知らないと言うであろう」

しかし、その夜、ペトロは大勢の人々の前で、「イエスなど知らない」「イエスなど知らない」「イエスなど知らない」と、三度もイエス様を否んでしまったのでした。こうして、ペトロは、世の終りの裁きの日に、父なる神様から「わたしはあなたのことなど知らない」と言われる他はない、裏切り者となってしまったのでした。

自分自身の強さを信じていたペトロは、その夜、自分自身の強さを徹底的に砕かれてしまいました。そうして、イエス様の教えに照らしたときに、ペトロは、「神の国にふさわしくない者。永遠の命を得られない者。父なる神様から、知らない、と言われてしまう者。裏切り者」となってしまったのです。ペトロは、「救われない者」となってしまったのです。

自分自身の強さに三度裏切られたペトロ。

ペトロは、出て行って激しく泣きました。いったいペトロは、イエス様のために泣いたのでしょうか。そうではなかったかもしれません。ペトロは、自分自身のことを泣いたのかもしれません。信じていた自分に自分を裏切られた衝撃と絶望のために、ペトロは自分自身がまるで死んだように感じて、自分自身を葬るために、泣いたのかもしれません。

こうして、ペトロの強さは粉々に砕かれてしまいました。ペトロは「救われない者」「裏切り者」「神にふさわしくない者」「神の国に入れない者」となってしまいました。

このようにして、ペトロは、「イエス様の恵みの世界」に足を踏み入れることが出来たのでした。ペトロを待っていたのは、「恵みの世界」でした。

恵みの世界。それは、人間の強さが尽き果てるところから、はじまります。

恵みの世界。それは、わたしたちが、自分に裏切られたところから、はじまります。

恵みの世界。それは、わたしたちが、「救われない者」であることを、自覚したところから、はじまります。

ガリラヤの湖のほとりで、復活したイエス様はペトロに会われました。

イエス様は、ペトロに言われました。

「ペトロよ、あなたはわたしを愛するか」 

ペトロは、もう自分を信じることが出来ませんでした。ペトロは、自分がイエス様を裏切った者であることを知っていました。ですから、ペトロはもう、自分を頼りにすることは出来ませんでした。ペトロはただ、イエス様の、深く、やさしい、愛のまなざしに、すべてをゆだねて、イエス様の恵みにすべてをゆだねて、こう言うほかありませんでした。

「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」

こうして、イエス様はペトロの裏切りの罪を赦してくださいました。

イエス様は、さらにペトロに言われました。

「ペトロよ、あなたはわたしを愛するか」 

ペトロは、自分が「救われない者」、「神の国にふさわしくない者」「永遠の命を得られない者」「父なる神から知らないと言われるほかない者」であることを、いやというほど、思い知らされていました。ですからペトロは、イエス様の、愛のまなざしにすべてをゆだねて、こう言うほかありませんでした。

「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」

こうして、イエス様はペトロの裏切りの罪を、二度、赦してくださいました。


さらに、イエス様はペトロに言われました。

「ペトロよ、あなたはわたしを愛するか」 

ペトロは、心を痛めました。ペトロは、以前のように自分を信じることは出来なくなっていました。自分の強さを頼みとして生きていくことは、もうペトロには出来なくなっていました。ペトロにとって、自分の強さはすでに終ってしまっていました。ですから、ペトロは、イエス様の愛と、イエス様の恵みに、すべてをおまかせしてこう言うほか、ありませんでした。

「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」

こうして、イエス様はペトロの裏切りの罪を、三度、赦してくださいました。

自分自身の強さが終らされて、自分の手の中にもはや頼みに出来るものがなにひとつなくなってしまったときに、ペトロは自分が、恵みの世界に生きているのを見出しました。からっぽになったペトロの手は、あたたかいイエス様の赦しの愛で満たされていました。もうペトロは、自分の強さや、自分の弱さや、自分の長所や、自分の短所や、自分自身のことからは、解き放たれてしまっていました。ペトロにとって、強いペトロはもう終っていました。そして、その終った場所に、ペトロを全身全霊で受け止めてくださるイエス様の愛が待っていたのでした。

こうして、ペトロは、ガリラヤの湖のほとりで、イエス様との本当の出会いを体験したのです。

これ以降、ペトロは「恵みの世界」に生きる者に変えられました。

恵みの世界。それは、「救われるに価しない者」が、イエス様の愛によって救われる世界です。

恵みの世界。それは、「神の国にふさわしくない者」が、イエス様の愛によって神の国に入れられる世界です。

恵みの世界。それは、「永遠の命を失った者」が、イエス様の愛によって永遠の命を受ける世界です。

恵みの世界。それは、裏切り者、放蕩息子、神に背を向けていた者が、父なる神様によって抱きしめられ、神の子どもとして、ふところに迎え入れられる世界です。

ペトロは自分が強かった時は、まさか、このような恵みの世界が存在するとは、想像することすら出来なかったでしょう。

イエス様は、ペトロを強いペトロから救い出し、恵みの世界に引き入れるために、十字架にかかり、復活し、ガリラヤの湖のほとりで、ペトロと出会ってくださいました。

その同じ復活のイエス様が、今日、わたしたちとも出会ってくださいます。わたしたちもペトロのように、イエス様との本当の出会いを体験することが出来ます。恵みの世界は、今日、わたしたちの目の前で、扉を開いて、わたしたちを待っています。わたしたちは、恵みの世界に、今日、一歩足を踏み入れさえすればよいのです。

自分自身を信じることをやめましょう。ペトロがそうであったように、自分の強さは自分を救うことはできず、自分の強さは自分を裏切ります。

むしろ、どうすることもできない弱さ、たよりなさ、無力感の中で、自分をすべてイエス様の愛におゆだねしましょう。

裏切り者のペトロをイエス様は無条件に受け入れて下ったように、今日もイエス様は、わたしたちを愛して、受け入れてくださいます。恵みによって、受け入れてくださいます。

ただ心を開いて、イエス様に自分をゆだねしましょう。その瞬間、イエス様がわたしたちと出会ってくださいます。わたしたちは、恵みの世界に生き始めています。そうして、わたしたちもペトロのように、新しい人に生まれ変わっているのです。

(2003年3月1日初出)

2013年3月17日

わたしの居場所はどこに?

聖句 ルカ1:39-56

「ここがわたしの居場所だ」と思えるものを持っている人は、なんと幸いでしょう。晴れの日も、雨の日も、喜びの日も、涙の日も、ここに帰れば、いつもわたしの居場所がある。そう思える人は、なんと幸いでしょう。新世紀エヴァンゲリオンというテレビアニメが大変な人気を博しましたが、その最終回では、いろいろあったあげく、主人公の碇シンジという中学生がこう叫ぶのです。「ぼくはここにいていいんだ!」 その瞬間から主人公は、ほんとうに生き始めるのです。ここが自分の居場所だ、そう思えた瞬間に新しい世界が始まるのです。

教会は、みんなにとって「ここがわたしの居場所だ」と思える、そういう場所であってほしいですよね。教会には、あたらしい人がたずねてきます。あたらしい人は教会で、はじめてのことをいろいろ経験します。礼拝で立ったり座ったりする。「げに」とか「だに」とか平安時代みたいな言葉の讃美歌を歌わせられる。「主の祈り」というかけ声とともに、少しも乱れずみんなが文語のお祈りを始めて、あっけにとられているうちにアーメンになる。電話帳みたいに恐ろしくぶあつい聖書をみんな自由自在にあやつって、ぱっと目当てのページを開くので、胆をつぶす。「あがない」とか「あぶらそそぎ」とか「いさおし」とか「義とされる」とか、わからない言葉が出て来る説教をみんな忍耐深く聞いている。あれ、なんか、居眠りしているひともいるみたいだ・・・

教会は、よくわからないことばかりですね。あたらしい人は、なかなか教会にむすびつきません。残念なことです。でも、わたしたちは知っているんです。たいせつなのは、そんなところじゃない。「げに」とか「だに」とか、立ったり座ったりとか、文語調のお祈りとか、長い説教とか、それがたいせつなんじゃない。イエスさまだ。イエスさまに出会ってほしいんだ。目に見えないけれど、イエスさまがここにおられて、イエスさまは「わたしはあなたのために十字架にかかって、よみがえって、命を与えるために、ここにいるよ」と、あなたを待っておられる。イエスさまに出会うことが、たいせつなんだ。わたしたちは、それを知っているんです。

でも、イエスさまとの心と心の出会いは、教会に足を運んでも、そう簡単に起こるものではない、ということも、わたしたちは知っていますね。そりゃ、自分たちだって昔はそうだったんだから。ところで、考えてみてください。もし、教会に来たあたらしい人が、「ここはわたしの居場所だ」「わたしはここにいてもいいんだ」と、心からそう思えたら、どうでしょう? 教会には、あたらしい人が来つづけるんじゃないでしょうか?

今日お読みした聖書は、マリアがエリサベトのもとをたずねた、という箇所です。マリアは当時、十代の少女でした。そうであるのに、赤ちゃんイエスさまをみごもったことを、天使から告げられたのです。まだ結婚していない十代の少女が、妊娠し、出産する。それは、からだの面でも、こころの面でも、社会的な面でも、とほうもない悩み、苦しみをもたらすことでした。マリアは心細く、不安だったことでしょう。わたしたちの想像を超えていますね。

でも、マリアには、行くところがあったんですよ。それが、エリサベトのところでした。エリサベトはマリアの親戚で、年をとった女性でしたが、エリサベトもまた神様の奇跡的な力によって赤ちゃんをみごもっていました。洗礼者ヨハネとなる赤ちゃんをみごもっていたのです。マリアとエリサベトは似た境遇にありました。だから、お互いがお互いを理解できたんです。理解できるから、心をかよわせて、話をすることができたんです。心がかようから、自分をさらけだして、お互いにそれを受け止め合うことができたんです。それは、ふたりにとって、ものすごい喜びでした。聖書はこう言っています。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った、『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています』」「マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます』」

マリアとエリサベトは、お互いがお互いの「居場所」である、そういう関係でした。そこに、よろこびがありました。マリアとエリサベトは、お互いを受け止め合うことができました。マリアは三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、家に帰りました。マリアは、エリサベトから勇気と励ましをもらったので、赤ちゃんイエスさまを産むための気持ちを整えることができました。

ここには、教会のまじわりの姿が示されているのではないでしょうか? 教会の中に「わたしの居場所」があるっていうのは、講壇の前から2番目のベンチの右端から4番目がわたしの座席だ、っていうことではないですよね? 教会に行くと、だれそれさんに会える。別に何か言うわけでもないんだけれど、だれそれさんがわたしのことを受け止めてくれる。そういう関係があるっていうことが「居場所」ではないでしょうか?

もちろん、わたしたちにとって究極の居場所は、イエスさまです。イエスさまとわたしたちとの関係。これが究極の居場所です。イエスさまは、わたしのことをすべて知っていてくださる。イエスさまは、わたしの罪を全部十字架で負って、ゆるしてくださった。イエスさまは、いつもそばにいてくださる。イエスさまは、わたしに永遠の命を与えてくださる。イエスさまとの関係は、永遠に続きます。イエスさまこそ、わたしたちにとって究極の居場所です。でも、それだけでいいんだったら、わたしたちは教会に来る必要がないかもしれませんね? パウロがアラビアの砂漠で3年間そうしたように、ひとりで洞窟に入って、ひとりでイエスさまと一緒にいればいいことになってしまう。でも、パウロは洞窟から出て来て、アンティオキアの教会に行って、そこで兄弟姉妹に仕えました。そこから、キリスト教会が世界に広がって行ったんです。

こう考えてみたらどうでしょう? わたしは、だれかのエリサベトになっているだろうか? わたしは、だれかのマリアになっているだろうか? お互いがお互いに対して「居場所」になっている関係。マリアとエリサベトの関係になるには、やはり、声をかけることからはじめましょう。イエスさまは、出会ったひとに声をおかけになりました。「あなたは何がしてほしいですか」とお尋ねになりました。そして、相手の求めに応えました。わたしたちも、イエスさまにならって、声をかけることをしていきたいですね。

イエスさまはまた、「飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、裸の人に着せ、牢にいる人を訪ねなさい」とおっしゃいました。ひとりひとりのひとが、それぞれ違った求めをもっている、ということですよね。飢えている人に着せたら、どうでしょう? 裸の人に飲ませたら、どうでしょう? 渇いている人に食べさせたら、どうでしょう? なんだかちぐはぐで、「ああ、自分の求めが応えてもらえた」という気持ちは生まれないでしょう。ですから、わたしたちは、ひとりひとりの必要を見て、応えていく必要がありますね。

教会成長の権威であるピーター・ワグナー博士は、ひとりの牧師がひとりのひとの求めに応じられる限度は20人、どんなに多くても30人が限界だ、と言いました。日本の教会の多くは、30人ぐらいの礼拝出席の教会が90パーセントを占めているそうです。わたしにとっての居場所は、牧師先生だ、神父さまだ、そう思っているクリスチャンが多い、ということでしょう。セロテープ・テストというのをご存じですか? 教会でセロテープが見当たらないとき、あなたは、だれに聞きに行きますか? 「小隊長、セロテープどこですか?」 あなたが聞きに行ったひとが、教会におけるあなたの「居場所」となっているひとですよ。

もし、教会につどっているクリスチャンひとりひとりが、だれかの「居場所」になることができたら、どうでしょう? マリアにとってのエリサベト、エリサベトにとってのマリアになることができたら、どうでしょう? みなさんひとりひとりが、あたらしい5人のひとの「居場所」になることができたら、どうでしょう? きょうここに25人が出席しています。ひとりひとりが、あたらしい5人のひとの「居場所」になることができたら、125人ものひとが、「来週も教会に行こう。教会には、わたしの居場所があるから。だから、どんなことがあっても、来週も教会に行こう」と思えるようになるのではないでしょうか。どうか、神様がわたしたしたちをそのように導いてくださるように、お祈りいたしましょう。

2013年3月14日

マタイ受難曲 第54曲


カール・リヒターによる1971年の上演。

第54曲 コラール

おお、血と傷にまみれた御頭、
苦痛と、嘲笑に満ちた御頭よ、
おお、嘲笑され
いばらの冠をかぶせられた御頭よ。
おお、御頭よ、いつもなら立派に
最高の栄誉で飾られていたのに、
今やひどく辱められている。
私の心からの挨拶を受け入れてください。

気高き御頭よ、
いつもなら世の権威も
恐れ避けるものを、
あなたはかくも唾をかけられ、
なんと青ざめておられることか!
あなたの眼の輝きは、
いかなる光とも比べることができないのに、
だれが恥ずかしげもなく傷つけたのですか?

歌詞対訳出典

黙示録21:17

また、城壁を測ると、百四十四ぺキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたのもこれである。

新しいエルサレムの城壁は高さが144ぺキスとされます。

1ぺキスは1アンマと同じ約45センチで、144ぺキスの城壁は約65メートルの高さになります。

聖書の神聖数字144は、12と12をかけあわせたものです。

12という数字は、3と4をかけあわせたもので、3は三位一体の神を、4は被造物をあらわす、とされます。すなわち、父と子と聖霊の3、東西南北の4、四次元世界の4、神の御前にいる四つの生き物ケルビムの4などです。

3と4をかけあわせて12というのは、神と被造物が完全な和解に入る、ということを象徴的にあらわします。

さらに、12と12をかけあわせた144は、神と被造物が絶対的で最終的で完全な和解に至ることをあらわします。

都の城壁の高さが144ペキスであるのは、神と被造物との和解が、もはや永遠に破られないことを示します。

この和解をもたらしたのは、主イエスキリストの十字架の血潮です。


イエス様を信じて生きる

2013年3月13日

黙示録21:18

都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。

新しいエルサレムは、過去・現在・未来の贖われたすべての者が共に住む場所です。

贖われた者らは、新しい天と新しい地のそこかしこに船出して行って、離散して住むのではありません。

ひとつところに住むのです。その理由は、ひとつところで交わりをするためです。

21世紀のキリスト者が2世紀の殉教者と、キリストの十字架について語り合う光景。

14世紀の神学者が7世紀の修道女と、キリストの復活について語り合う光景。

時代と場所と人種と階級と性別と言語と年齢を超えた交わりが、新しいエルサレムで生起します。

その都は、ガラスのように透き通っているので、かくされているものは何ひとつありません。

わたしたちは、そこで、いっさいのことを、つつみかくさず、すべてわかちあうのです。キリストの愛のうちに。


イエス様を信じて生きる