チェスタートン 今日の箴言



2014年1月8日

みなさまへ

ご挨拶を申し上げます。

クリスチャントゥデイ対山谷裁判にみなさまから総額251万2853円に及ぶご支援を頂戴し、6年越しの裁判を維持することができました。また、損害賠償金の支払いにつきましても、裁判支援資金口からの23万円と山谷の個人預金89万円を合わせて無事支払い終えることができました。心から感謝申し上げます。

ところが、さらなる動きとして、昨年12月26日に山谷のブログの削除を求める仮処分命令申し立てをクリスチャントゥデイが東京地裁に行いました。

仮処分命令申し立てにおいては、クリスチャントゥデイが債権者、山谷が債務者と言う立場になります。

本日1月8日が裁判所が債務者に審尋を行う期日でしたか、山谷は紀藤正樹弁護士と山口貴士弁護士に引き続き代理人を依頼して、審尋の期日が再設定されることとなりました。

このため両弁護士への依頼が新年にも続くこととなり、そのための費用20万円プラスアルファーが発生することになります。

皆様に度々のお願いをして心苦しく感じますが、何卒状況をご理解くださいまして、裁判支援資金口にさらなるご支援を賜りますならば大変幸いに存じます。現在裁判支援資金口の残高は1346円となっております。

なお、判決が出ました裁判につきましては、これが敗訴でありましたため弁護士報酬は発生しませんが、訴訟事務で使用されたコピー代や交通費等の実費がこれから清算されて弁護士事務所より請求されることになります。これにつきましても裁判支援資金口からの支援を賜りたく願っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

勝手なお願いばかり申し上げましたが、何卒ご宥恕くだされば幸いに存じます。神様の祝福をお祈り申し上げます。

山谷拝

金融機関名:みずほ銀行
支 店 名 : 方南町支店
支店番号:248
口座種別:普通預金
口座番号:1073408
口座名義:裁判対策事務処
カタカナ:サイバンタイサクジムショ



ご報告

東京地裁は2014年2月4日に仮処分決定を行いました。裁判所から削除を命じられた箇所については「利用規約」第16項下の特別条項をご参照ください。みなさまのお祈りとあたたかいご支援を心から感謝申し上げます。

(本記事更新後もジュビリーは続行いたします)

2013年11月30日

判決のご報告

みなさまにお祈りいただいておりました「クリスチャントゥデイ対山谷裁判」の判決が出ましたので、ここに謹んでご報告いたします。

東京地方裁判所は11月13日(水)に判決を示し、これを受けて18日(月)に被告山谷と被告代理人弁護士の紀藤正樹弁護士と山口貴士弁護士が対応を協議しました。

今回の裁判において原告側は名誉毀損の訴えの原因となるブログの記事を84か所あげていました。

これには下位項目がありますので、合計87か所となります。

裁判所はこのうち41か所について、名誉毀損の阻却事由となる真実性・相当性・公共性・公益性が認められる、あるいは、そもそも名誉毀損にあたらないと判決しました。

一方、46か所については名誉棄損が成立するとし、当該46か所の削除と損害賠償金の支払いを山谷に命じました。

なお、訴訟費用は原告と被告の折半となりました。

今回の判決で裁判所が事実として認定したことの中に、次があります。

△「ダビデ張が来臨のキリストである」との教義は、キリスト教においては異端的な教義である

△ダビデ張は過去の時点で統一教会の関係者(単なる信者ではなく関係大学の教授)であった

△原告高柳はダビデ張から牧師の按手をうけ、東京ソフィア教会の牧師としての活動に従事していた

△原告矢田は東京ソフィア教会の賛美リーダーでありイエス青年会の会長であった

△東京ソフィア教会での聖書講義ノートには「イエスキリストではなく来臨のキリスト」などと記載されており、この記載は「イエスキリスト」が再臨することを教義とするキリスト教とは異なり、異端的な教義に基づく記載である


それゆえ、今回の判決において「ダビデ張の統一教会前歴」「高柳のダビデ張からの牧師按手」「東京ソフィア教会の聖書講義における異端的な教義の記載」が事実認定されたことになります。

しかし「ダビデ張が来臨のキリストである」ことが明示的に記載された部分は聖書講義ノートにはなく、ただちに「ダビデ張が来臨のキリストである」旨の教義が東京ソフィア教会とクリスチャントゥデイにおいて教えこまれていたとは認められない、と裁判所は判断しました。

これについて、被告側は脱会者とのメールのやりとりが記載された書面を裏付けとして提出し、その中には「再臨主がダビデ張である」との教えがあった旨が記載されていましたが、脱会者と名乗る人物が匿名のために特定できないことを理由として、裁判所はこれを証拠には採用しませんでした。

この結果をふまえて弁護士と協議した結果、山谷は控訴を断念して、この判決を受諾することとしました。

控訴を断念した理由は、もし控訴した場合、脱会者に実名で法廷に出てもらわなければならなくなること。また、裁判資金が逼迫しており、加えて山谷が気力体力に限界を感じて、これ以上の裁判の続行が困難であると感じられたこと。さらに、裁判所が「ダビデ張の統一教会前歴」「高柳のダビデ張からの牧師按手」「東京ソフィア教会の聖書講義における異端的な教義の記載」を事実認定したことをもって、山谷側に一定の成果が得られたと判断したことによります。

長年にわたりみなさまのお祈りとご支援をいただいてこの裁判を戦って参りましたが、今回このような結果になりましたことをここにご報告申し上げ、ご理解とお祈りを賜りたく、どうぞよろしくお願い申し上げます。

なお、裁判所から削除を命じられた当該46か所については、すでに削除済みです。削除箇所については「Major Mak's Diary 利用規約」第16項を手引としてご参照くだされば幸いです。

当ブログとここからリンクされている関連ブログはすべて、2013年11月30日よりジュビリー(大安息)に入り、アーカイヴ(保管庫)となります。以後更新はありません。

2013年11月7日

イスラエルとイエス

・イエスはイスラエルの失われた羊を得るために来た。イスラエルに対する神の取り扱いは、過越を囲む契約共同体を通してなされて来た。イエスは最後の晩餐で新しい過越を創始し、それを囲む新しい契約共同体を創始した。旧共同体と新共同体は、十字架前のイエスの体と復活後のイエスの体の関係にある。

・過越を囲む契約共同体は、律法への聴従と、神殿での祭儀を通して、神を礼拝して来た。新しい過越(それはイエスの十字架である)を囲む契約共同体は、イエスの言葉への聴従と、イエスの復活の告知(イエスの体は新しい神殿である)を通して、神を礼拝する。

・「天地が過ぎ去るまで律法の一点一角も廃れない」とイエスは観た。これに対し「天地が過ぎ去っても私の言葉は過ぎ去らない」とイエスは主張した。こうして、イエスの言葉は律法に優越する。宇宙の創造の目的は律法にあるとする後期ユダヤ教からすれば、イエスの主張は宇宙の更新を意味することになる。

・イエスが「天地が過ぎ去るまで律法の一点一角も廃れない」と主張し・かつ「天地が過ぎ去っても私の言葉は過ぎ去らない」と主張していたことが本文批判で証明された場合。イエスは自分を「宇宙の更新者」と考えていたことになり、そこからエペソ・コロサイ・ヘブライの「宇宙的イエス」が紡ぎ出される。

・後期ユダヤ教では、律法を学ぶ者たちの所にシェキナー(神の栄光)が臨在する、と信じられた。「2人または3人が私の名によって集まる所には私もその中にいる」というイエスの言葉は、この後期ユダヤ教の概念をふまえたものかもしれない。もしそうであれば、イエスはシェキナーだということになる。

・「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すように、子に栄光を与えてください」というヨハネ17:1のイエスの祈りを、シェキナーという後期ユダヤ教の概念をあてはめて読んだら、どういうことになるのか。捕囚以来神殿を去っていたシェキナーの「帰還」を意味することになるのか。

・「わたしたちは、その栄光を見た」ヨハネ1:14

・シェキナーは光であり、旧約続編と新約において「輝き」に言及している箇所、特にギリシャ語「ドクサ」(栄光)が用いられている箇所は、シェキナーを指しており、シェキナーに相当する他のギリシャ語は無い。(ユダヤ教百科事典)

・第二神殿はシェキナーを欠く、とラビの一部は考えていた。もしイエスが自身をシェキナーと同一視していたのなら、イエスのエルサレム入城は、シェキナーのエルサレムへの帰還であり、それは「ヤハウェの帰還」を暗示することになる。後期ユダヤ教は「ヤハウェの帰還=世界の終末」と捉えていた。

・イエスがシェキナーであり、イエスの体が「神殿」であるなら、イエスの復活によって新しい神殿が出現したことになる。復活のイエスは天に昇り、人類に聖霊を注いだ。後期ユダヤ教は聖霊もシェキナーであると考えていたらしい。パウロ書簡がキリスト者の身体を「神殿」と呼ぶことに関係しているだろう。

・イエスにおいてシェキナーが帰還し、イエスの復活において新しい神殿が出現し、ペンテコステにおいて人類に聖霊(シェキナー)が注がれ、結果として人類(ユダヤ人も異邦人も含む)が「神殿」となった。このあと、第二神殿は破壊され、現状でも再建されていないが、「神殿」は存在していることになる。

・人類という神殿。ペンテコステの出来事においてシェキナーは人類を「神殿」として宿った。

・シェキナーは「留まる」「宿る」という意味。メムラ(言葉)イェカラ(栄光)と共に、神を間接的に表す言葉としてタルグム(アラム語訳旧約聖書)で用いられる。神の臨在の目に見える現れ・神の栄光が人間のあいだに留まるさまを示す。/シェキナーの栄光は新約ではギリシャ語「ドクサ」で示される。(G.H.ボックス)

・ギリシャ語「スケーネー」(幕屋)はシェキナーと意味も語音も似ているために選ばれてヨハネ1:14と黙示録21:3で使われている可能性がある。(G.H.ボックス)

・ヨハネ1:14「言葉(ロゴス)は肉体となって私たちの間に宿った(エスケノーセン<スケーネー)私たちはその栄光(ドクサ)を見た」ロゴス=メムラ、スケーネー=シェキナー、ドクサ=イェカラ。神を表す三つの語(メムラ・シェキナー・イェカラ)が同時に出現している。(G.H.ボックス)

・イエスをシェキナーと同一視する例で顕著なのはマタイ18:20「2人または3人が私の名によって集まるところには私もまたいるのである」と、タルムードのピルケ・アボート3:5「2人が共に座して律法を学ぶところにはシェキナーもまた共にいる」との対比である。(G.H.ボックス)